ラカンの言説の一流性 3

『他者と死者』の中で内田さんが引用している次のラカンの文章の理解を考えてみようと思う。


「我々はこれまでの研究によって、反復強迫(Wiederholungswang)はわれわれが以前に記号表現(シニフィアン)の連鎖の自己主張(l'insistance)と名付けたものの中に根拠をおいているのを知りました。この観念そのものは『l'ex-sistance』(つまり、中心から離れた場所)と相関的な関係にあるものとして明らかにされたわけですが、この場所はまた、フロイトの発見を重視しなければならない場合には無意識の主体をここに位置づける必要があります。知られるとおり、象徴界(le symbolique)が影響力を行使するこの場所の機能が想像界(l'imaginaire)のどのような経路を通って、人間という生体のもっとも奥深いところでその力を発揮するようになるのか、このことは精神分析によって始められた実際経験の中で初めて理解されるのです。」


この文章は、内田さんによれば『エクリ』と呼ばれるものの冒頭の一文だと言うことだ。冒頭であるにもかかわらず、「知りました」と書かれている内容に対する説明がない。つまり、この「知りました」の内容はすでに共有されているという前提で書かれている。



このような語彙の問題としての難しさに加えて、やはり対象がつかめないと言う難しさをこの文章には感じる。とりあえず、文法的・論理的な構造を箇条書きにしてみよう。

「反復強迫(Wiederholungswang)はわれわれが以前に記号表現(シニフィアン)の連鎖の自己主張(l'insistance)と名付けたものの中に根拠をおいている」
「反復強迫」は「『l'ex-sistance』(つまり、中心から離れた場所)と相関的な関係にあるものとして明らかにされた」
「中心から離れた場所」は「フロイトの発見を重視しなければならない場合には無意識の主体をここに位置づける必要があります」
「中心から離れた場所」=「象徴界(le symbolique)が影響力を行使するこの場所」
「中心から離れた場所」の「機能」が「想像界(l'imaginaire)のどのような経路を通って、人間という生体のもっとも奥深いところでその力を発揮するようになるのか」
   ↓という問題の解答
「精神分析によって始められた実際経験の中で初めて理解される」

これらの主張が何を語っているかの意味を理解することが、このラカンの言説を理解することになるだろう。内田さんの解説を読む前に頭に浮かんでくるものはほとんどない。この文章はそれくらい難解なものに僕は感じる。

内田さんは、まずこのわからなさを受け入れるか受け入れないかという二者択一を聞いてくる。分かった後に受け入れるという選択肢は用意されていない。分からない状態で、受け入れるかどうかを選ばなければならない。

もし受け入れないのであれば、ラカンとは関係なく、現実に対して正しい知見を見つけるという方向に進めばいいことになる。ラカンを学ばなければ現実に対して正しい知見が得られないと言うことではないからだ。ラカンが発見したことだって、他の人が発見出来ないと言うことはない。対象を正しく捉えれば同じ結論が導かれるはずだ。

しかし、いったん発見された真理を、独立に自分が発見するのはたいへんな困難と時間を必要とする。人が見つけた真理を学ぶ方がずっと能率がいいし簡単だ。だから、ラカンが発見した真理を学びたいと思ったら、ラカンのわからなさを受け入れるという選択をする。しかし、それはラカンに対して「絶対的な遅れ」を持つことをも意味すると内田さんは言う。

ラカンは真理を知っているが、自分はまだそれを知らない。この遅れは、ラカンを絶対的な指導者の位置に置き、自分を絶対的な学習者の位置に置く。この効果を内田さんは、「ラカンを欲望せよ」という言葉で象徴的に語っている。つまり、絶対的な学習者になったことで、「ラカンを欲望する」=「ラカンを理解したい」という動機を発生させるという効果を語っているように僕は感じた。

これは、感覚的には逆のような気もするが、そのような解釈も出来ないことではないとも思う。感覚的に逆だと思うのは、動機がまず存在して行動に移るときに、その動機をもたらした原因が何かなければ、気分的にすっきりしないからだ。原因はないけれど動機は生まれてくると言うことが、「絶対的な遅れ」と言うことで説明がつくのだろうか。

僕は、宮台氏の文章については、それが難解なものであろうとも、それを何とか理解したいという強い「動機」=「欲望」を感じる。そこには絶対的遅れという感覚もあるが、最初のきっかけはそうではなかった。僕が宮台氏に遭遇したのは、『戦争論・妄想論』という共著の本だった。ここに書かれていた宮台氏の文章に感銘し、その一流性を感じたので、宮台氏の書くものはすべて理解したいという強い欲望を持つようになった。最初の文章は、極端に難解なものではなかったのだ。

もし最初の文章で極端に難解なものを読んでしまったら、僕は宮台氏にこれほど欲望は感じなかっただろう。だから、難解さ故に遅れを感じたからと言って、それだけで強い欲望はわいてこない。他に、何か感銘を与えるきっかけがないと、難解さだけではダメだろう。もし難解さだけで欲望を感じる人がいたら、それこそ、難解なものは高級だとありがたがっているだけの俗物ではないかとも感じる。

ラカンに関しても、これはやはり素晴らしいことを書いているという体験がなければ、強い欲望は生まれてこないのではないかと思う。そういう意味では、どこからラカンに入るかが重要なのではないだろうか。もし『「知」の欺瞞』で批判されているようなラカンから入ってしまうと、ラカンに対して強い欲望は生まれてこないのではないか。

上のラカンの文章を、内田さんは次のように解説する。


「「象徴界が影響力を行使するこの場所」とは、他ならぬ『エクリ』冒頭のこの当のテクストのことである。
 想像界にとどまっている読者(つまり、未だ「ラカンを欲望する仕方を学んでいない人々」)の「もっとも奥深いところで」、ラカンがどのようにして「その力を発揮するようになるのか」を知りたければ、次のページをめくりたまえ。ラカンはそう書いているのである。
 その時、読者は「父」を追い求める旅程に踏み出すことになり、自分が今ラカンを読みつつあるという「実際経験」の中で、自分の読みを前進させる「権力」のうちに「その力」を「初めて理解する」ことになるのである。」


この解説なら、極端な難解さを感じることなく理解出来る。論理的な整合性を感じながら、そこで語られていることを頭に浮かべることが出来る。「象徴界」とは、意識は出来ないが強い動機を感じる原因がわき起こってくるところだ。その動機が欲望を強くすると言う「影響力」を持っている。それは、自分では正確に意識出来ないので「象徴」と語られているのだろう。

それに対し、「想像界」は、自分の意識でコントロール出来るところだ。つまり、ラカンを欲望するかどうかを自分で決定出来るのだが、それは自分で決定出来るだけに弱い動機になる。どうしても学びたいという心の中からわき起こってくるような強さはない。

「象徴界」の機能は「想像界」の経路を通過しなければならない。そうでなければ、それは元々「象徴界」に備わっていた本能のようなものになってしまうからだ。人間の本能としてそのようなものがあるという解釈も出来るだろうが、人間の行動は、すべて頭脳を通過して、思考を経た判断が基になって行われると考えるのを原理とするなら、経路を問題にしなければならない。

その経路は、「象徴界」であれば無意識に関係した経路になる。だからこそ「フロイトの発見を重視しなければならない場合には無意識の主体をここに位置づける必要があります」と語られているのだろう。ラカンがこのようなことを語っているのであれば、僕にも想像出来るし理解も出来る。また、学習者としての動機を考える上で、このメカニズムはたいへん参考になるものになるから、教育に携わる人間としては、非常に重要な知見を学んだということも言える。

かつての学校制度では、教師と生徒というのは、生徒の方が絶対的な遅れを感じて学習するという制度の下にあったのではないかと思う。そうであれば、教師の側が動機の手当をせずとも、学習の動機があるのが当然という前提で教育をすることが出来ただろう。

夜間中学にはそのような雰囲気がまだ残っている。教師の側の方が、学習内容に関しては、生徒よりも絶対的に先を進んでいる、生徒の側が絶対的に遅れているという認識がまだ双方にある。そこで、夜間中学でも学習意欲を高めると言うことに努力を割く必要がない。この前提のないところで学習意欲という動機を高めることは非常に困難であろうとも思う。

内田さんの解説によってラカンが考えていることを理解することが出来れば、ラカンが書いている難解な用語についてはほとんど知らなくても済む。それは正しく考えれば同じ結果に到達することであるから、用語が指し示している概念さえつかめれば、どんな用語を使ってもいいことになるからだ。「反復強迫」という言葉は、その言葉が指し示している現象を理解することが出来れば、この言葉を知らなくてもいい。

ラカンがこのような用語を使っているのは、内田さんが語るようにワザと難解にしているのだとしても、僕はもっと親切に書いてもらいたいものだと思う。この用語の意味を分かるように努力しない人間には分からなくても仕方がないのだとも言えるが、もし内田さんの解説がなく、ラカンの文章だけだったら、僕はラカンを読む気にはとてもならなかっただろう。ラカンは一流の人間かも知れないが、ラカンと普通の人間をつなぐ、内田さんのような一流の人間も絶対に必要だと思う。
[PR]
by ksyuumei | 2006-04-23 13:34 | 雑文


<< ラカンの言説の一流性 4 ラカンの言説の一流性 2 >>