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ZEEDさんへの返事

ZEEDさんからライブドアのブログの「仮説が科学になるとき」というエントリーにコメントをもらった。ライブドアのコメント欄は字数制限があって、短い返事ではなかなか真意が伝わらないので、ZEEDさんへの返事をまとめておこうと思う。ZEEDさんには弁証法に対する誤解もあると思われるので、僕の持論を展開する意味でも、一つのエントリーとしてまとまったことを記述しておきたいとも思った。まずは次のようなコメントに対する見解を述べておこう。


「1流の規定を秀さんの言うように定義ください。なにがどのように一流か?一流とはなんのでしょうか?秀さんの自身のご意見とおり、”厳密”に、”正確に”誰にでも一流となるよう定義を行ってください。」


僕の定義は、単純なもので、本質的なものを語っていれば「一流」であり、末梢的なものを語っていれば「二流」と判断している。ただし、「本質」と「抹消」に関しては、意見が分かれるところなので、これが一致しなければ僕の見解に賛成出来ないとしてもそれは仕方がない。本質と抹消に関しては、とても一言で定義しきれないので、これは、僕が何を本質と捉えているか、何を抹消と捉えているかを、僕の言説を読みとって判断してもらうしかない。



僕は宮台真司氏が、鋭い現実認識を語り、表面的な見えやすい現象ではなく、見えにくい隠れた本質を的確に捉えて語っていると評価している。だから、宮台氏の言説は一流だと思うわけだ。それに対して、『国家の品格』で語られていることは、分かりやすい表面的な現象を捉えているものばかりだと思っている。だから二流だと思うわけだ。大事なことは他にもあるだろうという批判だ。

しかし、藤原正彦さんという人間が、総体的に二流だという総合判断をしているわけではない。藤原さんは、おそらく数学者としては一流だろうと思う。数学の世界をひいき目に見るわけではないが、二流の数学者が、教授として君臨出来るほど、数学者はお互いの評価がいい加減ではないと思っている。数学者は、数学者としてマスコミでもてはやされるようなおいしい商売ではない。二流のポピュラー性では評価されないだろうと思うのだ。

藤原さんの言説の二流性は、数学者が、専門外の所に手を出すと、たとえ数学では一流でもその分野では二流になることもあるという、極めて当たり前のことが起きただけに過ぎないのではないかと思う。

僕の「一流性」と「二流性」の定義は極めて明確なのだが、その判断は難しい。「本質」と「抹消」と言うことに賛成してもらわないとならないだろう。僕は、宮台氏が、『諸君』『正論』的言説が二流であり、丸山真男の言説が一流であるという判断に賛成する。両者が末梢的なことを語っているか、本質的なことを語っているかという判断で宮台氏と一致するからである。この判断が一致しないと、結論は一致しない。しかし、定義は間違えようがないくらい明確だと思う。

一流か二硫かの判断には、従って、個人の意見か、これまでに認められている定説なのかという区別は関係がない。定説であろうとも、それが末梢的なことを語っているだけだと言うことが分かれば、それは二流の言説として僕は判断するだろう。まだ認められていない個人的な意見だとしても、それが本質を捉えていると判断すれば、僕はその言説を一流だと判断する。

僕は江川達也さんの言説を一流だと評価する。江川さん自身は、自分の正しさは「マイナーの中」にあると感じているようだが、それを認める人がたとえ少数であろうとも、僕は江川さんが本質を語っていると評価する。だから、江川さんの言説は一流だと思う。

「未熟=2流」というのは、半分正しくて半分間違っている。未熟な言説は、本質を捉えられずに末梢的な部分に流れて行きやすいので、二流性を示すことが多いだろう。しかし、時代に制約された幼稚性の中で、本質を捉えた一流の言説も存在する。古代の原子論などがそういうものだと思う。板倉聖宣さんも高く評価しているが、古代の原子論は、目に見えないことを語ると言うことで否定されてしまったが、極微の現実存在の本質を捉えていると言うことで一流の言説にはいるのではないかと思っている。

子供の意見というのも、単純素朴に現象を捉えているものとして未熟さを持っているが、その単純素朴さが、本質にまっすぐ切り込んでいくようなものであれば、本質の特性のすべてを解明することが出来ないという点で未熟さがあるだろうが、本質を捉えていると言うことで一流だとも評価出来る。直感に優れた人間は、未熟であっても一流性を見せるものだと思う。

これは、一流でありながら、未熟性という二流性も同時に持っているという「弁証法性」でもある。弁証法というのは、このように具体的な現実存在について語るときに、その現実存在の存在の仕方を記述する論理になる。抽象的な二面性があるという指摘にとどまるなら、それは弁証法を語っても、ほとんど何も語っていないのと同じくらい意味がないことだ。

弁証法は、現実に存在するあらゆるものについて言える論理だ。だから、抽象的に、「同時に変化し、変化しない」とだけ語っても、弁証法としては無意味だと思う。何が「同時に変化し、変化しない」かを具体的に語らなければ、弁証法は単に詭弁に堕するだけだと思う。

「視点を設定でき、かつ設定できないというのが弁証法的な理解です」という言い方も、抽象的に語る限りでは無意味だ。どんなときに視点を設定出来るか、どんなときに設定出来ないかが、具体的に分からなければ、弁証法を応用することが出来ないからだ。

視点を設定出来るのは、そこで考えている全体性を超える外の世界があるときだ。例えば、封建主義の時代に生きている人間が、封建主義以外の世界を想像出来なければ、それを違う視点から見ることは出来ないだろう。封建主義以外の世界が存在すると言うことが分かる人間が、封建主義を相対化し、そこで肯定されている事柄と反対のことを考える視点が設定出来るのだ。そして、その視点を設定することが出来れば、そこに「対立物の統一」という発想を用いることが出来て、弁証法を応用することが出来るのだと僕は思う。

だから、視点が設定出来ないと言うのは、外の世界が存在しない場合になる。これは、カントが考察した究極の存在の世界と言うことになるだろう。究極の存在の世界では、すべてを含む世界になるため、その外に出る視点を持ち得ない。だからこそ、視点を設定して弁証法的に捉えるとアンチノミーと呼ばれる二律背反が起きるのだと思う。そこでは弁証法が詭弁になってしまう。これは、究極存在は、現実存在ではなく、観念的に頭の中に設定しただけの世界だからだ。

カントがこのようなとらえ方をしていたのであれば、僕はカントが語ることがよく分かる。そして、カントが語ることは本質的なことであり、その言説は一流だと思う。

弁証法について語るとき、三浦つとむさんは、ことわざを使ったり落語を使ったりした。それは、弁証法を抽象的に語ると詭弁になると言うことをよく知っていたからだと思う。弁証法を語るときは、現実存在の存在のあり方を具体的に語らなければ、弁証法の適用が正しいかどうかの判断が出来ない。解釈によってどうにでも出来る言説になってしまう。

哲学者が語る弁証法の教科書に、本当の弁証法が存在せず、優れたジャーナリスト、科学者の本の方に本物の弁証法が語られているのは少しも不思議なことではない。ジャーナリストも科学者も、優れた人であれば、現実(現実存在)を的確に正しく把握しているからだ。哲学者のように、言葉をもてあそぶ、抽象的な語り方は、ごく当たり前のことしか言えなくなるだろう。それは、弁証法を応用することはあきらめた、言葉の遊びのようなものになるだろうと思う。

弁証法の応用は技術である。具体的にどういう手順で、どのように発想していくかを意識出来なければ応用は出来ない。いくら言葉をいじくっても、現実存在を、さまざまの角度から正しく見るという視点がなければ決して出来ないだろう。弁証法にとっては、視点を語ることが本質であって、肯定と否定の言葉をいくら語っても、それだけでは現実存在の本質は見えて来ないのだと僕は考える。
by ksyuumei | 2006-04-19 09:27 | 雑文


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