江川達也氏の言説は一流か

僕は、漫画家の江川達也氏を神保哲生・宮台真司両氏のマル激トーク・オン・デマンドで知った。宮台氏は江川氏を高く評価しており、その見識の深さを認めていた。しかし、江川氏は、他の所では変人として有名になっているようで、必ずしも高く評価している人ばかりではなさそうだ。特に、ドラえもん批判をしてからは、ドラえもんファンからは嫌われているようだ。

僕は今はあまりマンガを読まないので、江川氏のマンガを評価することは出来ないのだが、『現実はマイナーの中に』(ウェイツ)という本に語られている江川氏の言説には一流性を感じる。このような発想と論理展開が出来る人なら、宮台氏が高く評価するのも頷けるという感じがしている。

江川氏は時にかなりの極論を語るので、その背景となる根拠が読みとれないときは、勝手に傲慢な持論を展開しているようにしか見えない。しかし、その根拠さえ読みとれるなら、非常に論理的に明確な主張をしていることが分かる。江川氏が、数学の専門家でもあったという近さがあるせいかもしれないが、僕は彼の言説を高く評価する。それをこの著書からの引用で考えてみたいと思う。



まずは冒頭に語られる、「海外で日本文化の象徴としてマンガが評価されている」という質問に対する答を見てみよう。


「評価されていると言っても、そんなに大したものではないと思います。海外の一部のマニアがマニアックに評価していることが、全世界で評価されているかのように大げさに言われる気がします。
 かつてのYMOが海外で評価されたというのも同じ。各国にほんの少しずつファンがいると全世界ではかなりの数になるから、海外で評価されているように見える。そこで日本に逆輸入することで、日本でのヒットをねらうといった戦略に過ぎない。マンガも同じで、決して全世界の人がもれなく知っているわけではなくて、世界中に少しずつファンがいることが「海外で評価されている」実体に過ぎない。マンガが評価されているとは言っても、海外でも所詮サブカルチャー的に捉えられているだけだと思います。
 以前、『少年ジャンプ』の編集者と話したことがありますが、なぜ日本のマンガやアニメが海外に出ているかというと、欧米では子供文化に対して大人が余りサービスをしていないからではないか。欧米では「子供は厳しくしつけなければいけない」という感じで、日本のように甘やかしたりはしない。イソップ童話のような子供向けの寓話にも、子供に飴を与えるよりも「こんなことをすると人生、たいへんなことになるぞ」と言った戒め的なものが多い。」


この答は、非常に説得力がある論理的なものになっている。単に自分の感覚で、情緒的に「思った」ことを伝えるのではなく、「大したことではない」と言うことの根拠が論理的に語られているのだ。それも、その論理の正当性が確認出来る形で語られている。その根拠を列挙してみると、

1 数が多いと言っても、多くの国で少しずつあるのを合計して多くなっているだけ
2 海外で評価しているのは、一部のマニアだけ
3 その評価が、日本で売るための宣伝になるので声高に言われているだけ
4 欧米では、他に子供のための文化がないので、大したことが無くても日本のマンガが受け入れられる

この一つ一つの「事実」に関しては、確認してみないと賛成出来ないと言う人もいるかも知れない。しかし、これらを「事実」として認めるなら、「大したこと無い」と言うことも論理的帰結として納得出来るという論理構造がハッキリしているので、江川氏の言説は非常に説得力があるのを感じる。

僕は上の4つがほぼ事実だろうと思うので、江川氏の主張に賛成する。論理的帰結としてそれが正しいと思うのだ。この江川氏の主張に対して、日本のマンガが、日本の素晴らしさを世界に伝えているのだと思いたい人は感情的な反発を覚えるかも知れない。「大したこと無い」というのは、否定の言葉としては、バカにされたようにも感じるからだ。しかし感情的な反発は正しい判断を妨げる。判断は、冷静に論理的に行わなければ間違えるだろう。江川氏の言説は冷静に論理的に受け止めると、極めて真っ当なことを言っているように感じる。

次の言説にも、僕は鋭さを感じる。


「それは別にマンガだけではなくて、明治以降の日本人すべてについて言えることですね。西洋的なものをどれだけ自分の中に入れて、自分の土着的なオリジナルなものをどこまで出しているかという配分で、人を切ってみると分かりやすい。その人がどこまで欧米のパクリで行こうと思っているのか、どこまで自分のオリジナルで行こうと思っているのか。
 夏目漱石と南方熊楠を見ても分かりやすいのですが、熊楠はかなりの部分、アジア的なものを持ってヨーロッパへ行き、ヨーロッパと互角かそれ以上に自分の主張をして、周りからも認められた。しかし日本では、それほど認められなかった人です。夏目漱石は、日本において西洋のパクリで認められ、それから海外へ行きました。土着的で日本的オリジナルなものは、余り持っていなかった。西洋のパクリとしてはレベルが高かったけれど、所詮パクリだから西洋人に勝てるわけがない。それで失意のうちに戻ってきた。」


日本人としてのオリジナリティーで人を評価するという発想は面白いと思う。その評価基準に照らせば、漱石と熊楠に対する江川さんの評価というのも納得出来る。それに無条件に賛成はしないが、言っていることは理解出来るという感じだろうか。

僕は、漱石は、西洋のパクリとしては一流だったと評価してもいいのではないかと思っている。どの面で一流かを評価するのは、視点に寄るのだと思う。土着のオリジナリティーという点では、熊楠の方が一流だったのだろうが、視点を変えれば、漱石が一流だという判断をすることも出来るだろうと思う。

この一流性は比較してもしょうがないものなので、むしろ、これが二人の日本社会での位置にどう影響しているかを考えた方が面白い。パクリの一流性の方が、オリジナルの一流性よりも高く評価されるというのが、どうやら日本社会の特徴ではないかとも思えるからだ。

日本ではパクリの一流性の方が認められる傾向があるとしたら、オリジナルな一流性を持っているものよりも、オリジナルでは二流の方が良く売れるという、ベストセラーの二流性にも通じるような要因が、日本社会にあるのではないかという予想が当たっているかも知れない。また、オリジナルの一流性を持っている人間は、まず海外で認められて、そこから逆輸入で日本に入れた方が売れるという戦略も頷ける。海外で認められるという、西洋のパクリ的な一流性を持たせた方が売れると予想出来るからだ。それは、本当は日本のオリジナルな一流性だからこそ海外で認められたのだが、逆輸入されると、海外で認められたと言うことがパクリの一流性となって宣伝出来る。

なお、夏目漱石をちょっと擁護しておくと、三浦つとむさんによれば、漱石は小説家としてよりも、文学を科学にしようと思っていた、理科系的な発想を持つ、科学者に近い感覚を持っていた人だったようだ。ソシュールが、言語学の対象を明確に定義して、言語学を科学にした創始者といわれているように、漱石も文学というのを厳密に定義して、それを科学的に扱える対象として設定出来ないかを考えていたというのが三浦さんの漱石解釈だった。

しかし、漱石のその願いはついに叶えられず、その研究の過程で生まれてきたのが小説の形をした作品だったと三浦さんは見ていた。漱石の小説は、形を変えた学術論文だと三浦さんは解釈していたのだった。だから、漱石の小説は、漱石の中にあふれてくる個人的な心情を語ったものとして受け取らない方がいいだろうというようなことも語っていた。文学の可能性に対するある種の実験として受け取った方がいいだろうというような内容だっただろうか。

漱石は、本当の意味での芸術家ではなく、むしろ科学者だったのではないかと思う。そうであれば、西洋のパクリの立場に立たなければ、当時の日本では科学を押し進めることが出来なかっただろう。だから、漱石が志し半ばで挫折したとしても、当時の日本で科学研究を押し進めるという条件から言えば、やはり最高の位置にいたのではないかと思う。だから、西洋のパクリといえども、その面ではやはり漱石は「超一流」と呼んでもいいのではないかと思う。

江川氏は、「外国へ行って勝ち残るのは、理系の人間か、もしくは日本的、アジア的なものをちゃんと認識している人間かのどちらかだけです」と語っている。そういう意味では、漱石の研究が文学ではなく、理系的なものだったら漱石も外国で勝ち残れたのではないかと思う。

理系的なものは、それを学ぶことが出来れば、非常に普遍的な論理で展開出来るので、日本人であることの不利が解消されるのではないかと思う。文学というのは、未だに科学の対象にはなっていないし、おそらく今後も科学の対象になることはないだろうと思う。それは、鑑賞という主観の世界の出来事を考察することになるので、だれにでも当てはまるような普遍性・任意性を持ち得ない。だから、長い伝統の末に知識がたまっていた当時の西洋に、生まれたばかりの文学らしきものの中で生きていた日本の漱石は、最初から大きなハンディを持って研究をしなければならなかったのだろうと思う。

今なら日本でもかなりの文学の伝統を積み重ねることが出来たので、文学研究でも西洋に劣らない、パクリの立場でも一流だと呼べるものがたくさん生まれているのではないだろうか。

江川氏は、このあとに「パクリ」か「オリジナル」かで葛藤した手塚治虫について語っている。これは、どちらでも一流になる可能性がある。どちらの一流が好きかというのは好みの問題であって、その優劣を客観的に論じることは出来ないだろう。しかし、「パクリ」の一流なのか、「オリジナル」の一流なのかという視点は面白いものだと思う。

これは、逆に言えば、「パクリの二流」と「オリジナルの二流」という対象も考えられるのではないかと思えるので面白いと思う。その時に、「パクリの一流」と「オリジナルの二流」とは、比較して価値の優劣が考えることが出来るか、あるいは、「パクリの二流」と「オリジナルの一流」とが比較出来るか、という問題を考えるのは面白いと思う。

江川氏は、手塚治虫を「パクリの一流」と見ているようだ。そして、「オリジナルの一流」の代表は水木しげるだと見ている。江川氏の好みは「オリジナルの一流」の方なので、水木しげるの方を高く評価しているのだが、この言説にも説得力があるかどうか考えてみたいと思う。
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by ksyuumei | 2006-04-15 18:24 | 雑文


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