進化論に対する疑問

進化論に対する疑問というのは、進化という考え方自体が間違っていると考えているのではない。進化という発想は、生物が同一のものとしてあり続けるのではなく、何らかの変化(どれを「進化」と呼ぶのかにはさまざまな異論があるが)をしてきたと考えるものだ。もしこの発想を否定するのなら、生物は変化しないと考えなければならない。

生物が変化しないものなら、種類が違うように見える生物は、どれも突然地球上に出現したと解釈しなければならなくなる。この、進化を否定する発想は、やはり考えにくいものだから、進化というものは確かにあったのだろうとは思える。神の創造という前提がない限り、ある日突然多様な生物が出現したとは考えにくいからだ。逆に言えば、進化を認める発想は、神による世界の創造を否定する立場でもあるだろう。

進化という発想そのもには僕は疑問を持っていない。むしろ、地球の歴史においては、生物が存在していなかった時代もあっただろうということを認めるので、進化という発想も、それなしには現在の地球の生物の多様性を整合的には考えられないという点で、やはり認めざるを得ない。もし、神なしに生物の創造を認めるなら、地球の外から生物がやってきたとでも考えなければならないが、それは確率的にありそうもない。



最初の生物だけが地球外から偶然やってきたと言うことは確率的に考えられそうだが、その後は、その生物が進化したと考えるなら、やはり進化の発想が正しいと考えていることになる。進化の発想が正しくない、生物は進化しないと考えるのなら、新しい種は、すべてどこかからやってこなければならなくなるが、それは確率的にあり得ないと僕は思う。

このように考えると、進化の発想は、発想としては正しいと思わざるを得ないが、それが科学的な理論に発展すると言うことには僕は疑問を持っている。生物が変化してきたという事実は、あまりにも対象とする範囲が広すぎて、「科」にとどまらないような気がするのだ。「科」の学問にするには、対象の範囲が広すぎて、条件付きの真理が発見出来ないような気がする。

発想として正しいとは思うが科学にはならないと思えるものに弁証法というものがある。弁証法は、一言で言えば、現実存在には視点を変えることによって対立する面が常に発見出来るというものだ。その対立する面を主張する命題を統一して「矛盾」とも呼んでいる。これは、形式論理で扱う「矛盾」とはまったく違うものなので、同じ名前で呼ぶのを気をつけなければならないと僕は思っている。本来は「対立」と呼んだ方がいいと思うが、歴史的に「矛盾」と呼ばれてきたので、そう呼んでいるのだが。

現実に存在するものは、いろいろな角度からそれを見ることが出来る。また、他との比較における相対性も、視点の一つとして設定することが出来る。後から解釈することが出来るのだ。だから、必ず対立するところを見つけることが出来る。解釈なら、どのようにでも自由に出来るからだ。

具体的に存在するものを考えれば、弁証法の発想の正しさはすぐに確かめられる。例えば、具体的な存在としての自分自身を考えてみると、昨日は気分が良かったが、今日は悪かったと言うことがあった場合、「良い」と「悪い」の対立が見つかり、弁証法の発想の正しさを確認出来る。昨日と今日という視点を変えることによってこの対立は発見されている。

このように、発想の正しさはよく分かるが、これが科学になるかということでは、その対象が「現実に存在するものすべて」という途方もなく広いものになっているので疑問を感じる。これは「科」としてはまったくふさわしくない。限定された条件下での真理は求めることが出来ない。

科学は、限定された対象に対しての真理を語るので、その条件下では、未知なる対象に対する未来の予想を正しく設定することが出来る。しかし、弁証法は、結果からそこに存在した弁証法性を判断するしかない。これから見つかるだろう弁証法性を、見つける前に100%言い当てることは出来ないのだ。

弁証法性があるだろうことは予想出来る。しかし、その弁証法性が具体的にどういうものであるかは何も言えないのだ。それは見つけてみないと分からない。視点を変えることによって得られる対立といっても、それはあまりに多様すぎて、事前にそれを具体的に言うことが出来ない。

弁証法には、「対立物の統一」という言い方に加えて、「否定の否定」「対立物の相互浸透」「量質転化」という3つの法則があるとも言われている。しかし、これは「対立物の統一」でとらえられる視点を、3つの種類に分けただけで、これで具体的な何かが分かるわけではない。この法則で語られる属性も、やはり結果的に解釈してみないと何も言えないのである。

板倉さんは、このような弁証法の性質を捉えて、弁証法というのは発想法として捉えるべきだろうと語っている。対象について何かを考えるときに、考える指針を与える技術的なものとして捉えると言うことだと僕は思う。弁証法的に考えたからと言って真理(科学)であることが分かるのではない。あえて言えば、真理であるかも知れない仮説を見つけるための発想法だと言えばいいだろうか。

僕が師と仰ぐ三浦つとむさんは『弁証法はどういう科学か』という本を書いた。この書名に対して板倉さんは、三浦さんは、弁証法は間違いやデタラメ・詭弁の類ではないということを象徴的に言うために「科学」という言葉を使ったのだろうと解釈していた。僕もそう思う。厳密な意味では、板倉さんが言うように、弁証法を「科学」と呼ぶべきではないと思っている。

「進化」と言うことも、科学として確立出来るものではなく、生物現象を見るときの発想法として有効に利用すべきものではないかと僕は感じる。現実に存在する生物のすべてに、何らかの「進化」を発見出来るので、それが他の生物科学の仮説を見つける発想法として役立つのではないかという気がする。

以前のエントリーで、「DNA配列の一部が変化する」ということを「進化」の定義に使えば、判断の基準としては明確なので科学になる可能性があるのではないかと考えたことがある。これは、広すぎる「進化」の範囲を狭めることにもなるので「科」の学問になる可能性も出てくる。

しかし、よく考えてみると、「進化」の幅を狭めることは、発想法としての有効性を失わせることになるのではないかと思うようになった。弁証法も、その対象を狭めて科学らしくすることが出来るかも知れないが、そうするとたぶん弁証法の持っている発想法としての素晴らしさが失われると思う。そうやって無理やり科学性を持たせるよりも、優れた発想法として使う方がより有効なのではないかと思う。

「DNA配列の一部が変化する」というのも、「進化」という言葉で呼ぶのではなく、遺伝法則を解明する科学の中で、何か他の言葉で呼んだ方がいいのではないだろうか。「遺伝形質変化」とでも名前を付ければ、この定義の下で、どのような限定された条件の時に、どのような現象が見られるのかが解明されるのではないか。そしてそのとき、法則性として何らかのものが求められ、それが正しいことが確かめられたとき、その法則性は遺伝現象を解明する科学の資格を得るのではないだろうか。

遺伝学というのは、その対象が限定され、仮説実験の論理が使えるので科学になる可能性があると思う。だから、その一部を科学としての進化論だ、と呼ぶことも出来るかも知れない。しかし、それは進化論の発想法としての有効性を殺すのではないか。進化論は、生物現象すべてを被うからこそ発想法として優れているのではないだろうか。しかし、発想法として捉えた場合は、それが科学のような真理をもたらすのではないと言うことも忘れてはならない。

板倉さんは、科学を限定された範囲の「絶対的真理」として捉えていたが、その科学を押し進める発想法として「哲学」というものを想定していた。板倉さんが考える「哲学」は、対象が限定されていない、森羅万象を対象にして、あらゆる角度からそれを考えるという学問だった。その哲学が、対象を限定して捉えている科学において、違う角度から対象を見る目を教え、それによって謎を解くきっかけをつかむというのが、板倉さんの「哲学」の有効性のとらえ方だった。

コペルニクスが地動説を考えていたとき、地動説の難点として考えられていたのは、地球がものすごい速さで動いていたら、地上のものはバラバラになって壊れてしまうのではないかと言うことだった。ものすごいスピードのものに乗っていると、そのスピードが与える影響が大きいことは経験出来たからだ。

しかし、「哲学」的に広い視野でこのことを考え直してみると、地球の周りを回っている天体は、遠く離れているのだから、ものすごい速さで動いているはずだ。そうであれば、これらの天体はそのためにバラバラになるのではないか。しかし、ちゃんと同じ姿で動き続けているように見える。だから、地球が動いているという難点も、何らかの解決が出来るのではないかと発想することが出来る。

ある難点を指摘されたとき、その難点があるんじゃダメだと考えるか、何か整合的に説明出来るのじゃないかと考えるのでは、その先の考え方が違ってくる。発想法というのは、このようなときに大きな有効性を発揮する。広い視野を持ち、森羅万象について考える「哲学」は、このような発想法として役に立つ。同じように、現実存在が、現実に存在している有様を考えるときに、現実にそうなんだから仕方がないと考えたくなってくるようなものの「対立」した面を発見するような発想法を持っていると、仕方がないという受け取り方ではなく、存在の根拠を合理的に理解するきっかけをつかむことが出来る。

進化論という発想は、生物の現在の姿が、どのような過程を経てそうなってきたかを考えるときに役に立つのではないだろうか。進化論だけでその正しい解答を出すことは出来ないが、解答を考える指針をいくつか与えてくれる発想法として役立つのではないか。僕は、進化論は科学としてよりも、発想法として有効性を考えた方がいいのではないかと感じる。
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by ksyuumei | 2006-04-09 23:50 | 科学


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