論理的理解が出来ない二流の言説

umehoushi氏からトラックバックをもらって、「方法について(1) Faith in Science-マククリントック女史の憂鬱-」というエントリーを読みにいったのだが、ここには、僕が批判的に検討してきた二流の言説の特徴がよく出ている。

それは、一言で言えば、明らかに批判出来るような欠点のあるものを、批判したいものに勝手に貼り付けて、「だからダメだ」と語るような言説だ。最初から批判出来るものを批判しているのであるから、これは分かりやすく、しかも失敗はない。しかし、それは本当に批判したいものとは何の関係もない、独り言に過ぎない。



まずSivad氏の引用文の


「ここで用いられているのは、まず与えられた命題を自明に真とし、そこにつながりそうな根拠?をかき集める・でっち上げるやり方です」


という文章は、僕の言説とまったく関係がない。彼は、僕の文章のどの部分が、このような批判に値するかを具体的に指摘したことは一回もない。文章の印象批評として、彼はそう思ったと言うことだけだ。そして、そう思った対象は、このような属性を持っていたら、それは批判に値するだろう。

しかし、これは自分の思いを単に相手に反映させているだけのことであって、このような浅はかな読み方しかできないから誤読をするのである。Sivad氏は、推論によって論理が展開されるのと、ある命題が真であるということを証明するという論理全体の把握との区別がつかないのだ。「与えられた命題を自明に真と」したのではなく、それを前提として推論を展開するというのは、論理として当たり前に行われることである。

推理小説の探偵だって、誰が犯人か分からないときに、容疑者を犯人だと設定して推論を展開するものだ。その時に、容疑者を犯人としたのを、「自明に真とした」と彼は批判するのだろうか。それは、そのことを証明したいから、まさに仮定に設定して推論を展開してみるというただそれだけのことなのである。

僕がSivad氏を批判したのは、


「科学においては、ある仮説が与えられた場合その「反証可能性」を検討し、その命題を反証できるような実験や調査を行います。その結果反証されなければ、その命題は一つ上の「確からしさ」を得るのです。」


という言説の部分だ。批判出来る対象を批判して、相手を批判した気分に浸っている水準の低い論理を展開するから、このように「科学」について間違った認識を持っているのだろうと思って、この部分を批判したのである。

ここでの批判のポイントは、「一つ上の「確からしさ」」という考え方だ。「確からしさ」に一つ上も二つ上もない。科学においては、「確か」か「確かでない」かどちらかなのだ。こんな確からしさをいくら積み重ねても、それは決して科学に到達しないと言う批判を僕はしたのだ。もちろん、科学などすべて仮説だという戯言を主張するのであれば、そういう解釈をする人間と論争しても仕方がない。

その戯言は「反証可能性」がないから、いくら反論しても解釈で逃げられるからだ。解釈のポイントは、科学的真理を「完全」だと思い込むその概念規定だ。「完全」な真理と比べれば、科学的真理はいつでも「不完全」だ。だから、科学がすべて仮説だという言説は、それが「完全」な真理ではないという前提から、形式論理的にいつでも導かれる。科学的真理は、限定された条件の範囲で「絶対的真理」となるという反論は、それが「完全でない」という解釈でいつも逃げられることになるだろう。

科学的真理というのは、エンゲルスが『反デューリング論』で指摘して、三浦つとむさんが解説していたように、その適用の範囲を逸脱すれば誤謬になるという「相対的真理」として捉えなければならないのだ。これは、誤謬になるという面に注目すれば「相対的誤謬」にもなる。科学的真理とは、「相対的真理」であると同時に「相対的誤謬」だという弁証法的対象なのだ。

そして、この「相対的真理」が成立する対象の範囲を、仮説実験の論理によって確認していくことによって、「絶対的真理」となる範囲が広がっていく。これをSivad氏は、「一つ上の「確からしさ」」という気分で受け止めているのだろうが、それは「確からしさ」という言説の属性が変化したのではなく、対象を「真」にするような集合の範囲という実体的側面が変化しているのである。「確からしさ」など気分で感じているだけだ。論理を理解せず、気分で情緒的に判断するからこのような感想を持つのだろう。『国家の品格』の言説と同じ二流性がここにはある。

エンゲルスは、「相対的真理」の無限の連鎖が究極(無制限)の「絶対的真理」の現実的な存在になるとも語っている。これは、究極の「絶対的真理」というものが、そこに現実存在として出てくるのではなく、極限のような可能性として常に想定されているのだということを表す。科学が「完全」な真理ではないから仮説に過ぎないという言説は、究極の「絶対的真理」ではないから科学ではないという主張と同じだ。

これは「真理」というものを弁証法的に捉えられないからそのような妄想が生まれてくる。実際には、「絶対的真理」というのを、究極のものとして捉えるのではなく、ある制限の下では「絶対的」に成り立つと考えれば、それは「相対的真理」であると同時に「絶対的真理」でもあるという弁証法的な理解になる。この意味での「絶対的真理」こそが科学なのである。

「反証可能性」という言葉を語れば、何か科学を語ったような気分になるのかも知れないが、これらの「真理」の関係を弁証法的に考察出来ない人間に科学が語れるはずがない。「反証可能性」というのは、解釈で逃げるから反証が反証にならないということに過ぎないのである。もし解釈で逃げられることがなければ、すべての判断は反証可能性をもっている。つまり、判断というものは、それを厳密に検討すれば、正しいか正しくないかがハッキリ決まる「科学」としての可能性をいつも持っているのである。それが「科学」に出来ないのは、解釈で逃げるからなのだ。

umehoushi氏が提出している6 steps programなるものも、いくらでも解釈で逃げられるものなので、これだけでは科学であることの証明は出来ない。科学であるかどうかは、解釈によって逃げられない完全な規定が必要なのだ。ここには、


「1.現実世界を指定する。この時に科学的なタームは使わないで、一般的なタームで記述する。

2.セオリーを構築する。このときには科学的タームを使ってもよいし、タームの定義づけなどを行ってもよい。

3.セオリーに基づいて現実世界がどう動くか、どう変化するか、などを予測をする。

4.観察や実験を通じて現実世界を記述するデータを算出する。

5.データとセオリーの予測が合致しているかを判断し、合致していなければもう一度ステップ1に戻る。

6.反証可能性を保持したまま、セオリーとして提出する。」


と書かれているが、「一般的なターム」「科学的ターム」などの言葉は、どうにでも定義出来る。このステップをすべて踏襲したとしても、この定義が狂っていたら、それはすべておしまいだ。具体的な科学が、科学であるかどうか(すなわち「相対的真理」であると同時に「絶対的真理」であるという意味での「真理」であるかどうか)という問題は、その科学を具体的に検討しなければ判断は出来ないのである。このようなステップをいくら抽象的にいじってみてもその判断は出来ない。

科学も論理もまったく理解していないSivad氏の主張を「科学精神に忠実だと思います」と判断する段階で、僕は、このエントリーをまったく信用していないのだが、ここには本質的な科学論は何も語られていない。なにやら怪しげな知識をたくさん披露してくれているが、これは本多勝一氏が、「お勉強発表会」と揶揄したように、「いろいろなことをたくさん知っているんですね」という感想しかない。それが正しいかどうかを調べるのは手間がかかるので、とてもそんな関心はない。そんなことは、すべて僕の主張とはまったく関係がないということだけをいっておこう。

もし、マトモに批判をしたいのなら、「相対的真理」「相対的誤謬」「絶対的真理」の関係における弁証法性を論じてもらいたいものだと思う。


「khideakiさんは反証可能性を抹消することは不可能なので科学自身を"適用範囲に有効な学"になるべきだとおっしゃっていますが、それは違う。それは少なくとも科学の方法論を脱した行為であるし、その適用範囲の限定が恣意的に行われた時には、それをも"科学的"と認めなければならない。たとえば細かい改竄を行い続けた天動説の主導者のように。」


という主張も、どこをどう読めばこのような指摘が生まれてくるのか分からない。「適用範囲の限定が恣意的に行われた時」と言うことがどこから読みとれたのだろう。科学がこのようなものだという思い込みを持っているのではないだろうか。「適用範囲の限界」というのは、科学の理論の全体像が把握されたときに、自ずと必然的に導かれてくるものであって、「恣意的」になどなされているのではない。科学に対する無理解ではないのか。


「で、少なくともここで議論されているのは科学的方法です。でもたとえば、この99.999%の安全性を保持している船があるとして、残りの0.001%の反証可能性を元に、この船には乗るべきではない、と判断されるべきではありません。なぜなら反証可能性を保持したセオリーはなんらかの、khideakiさんがおっしゃる適用範囲に対して"実践"されなければならないからです。実践と方法を分けて考えれば、もうちょっとわかりやすい気がします。」


という言説も、科学と「反証可能性」というものに対する大いなる勘違いだ。船の危険を確率的に計算することは、いったいいかなる理論を反証することになるのだろうか。交通事故で死ぬ可能性はゼロではありませんね、と言うことで何が否定されるだろうか。それは「人間は決して交通事故では死なない」という命題が否定されるだけのことだろう。この命題は、反証するだけの値打ちのある「科学的命題」なのか。

だいたい科学の問題に「乗るべきではない」と「べき」の問題が入り込むことが科学に対する無理解の現れだ。それは、科学ではなく、自己責任による選択の問題なのである。科学というのは、科学であることが証明されれば、その真理によって、安心して月に向かってロケットを飛ばすことが出来るだけの信頼が出来るものなのである。

飛ばしてみないとどこに行くか分かりません。それは仮説であって真理ではないからです。などと言ったら、宇宙開発はすべてギャンブルだと言うことになる。ロケットの安全性については、まだ分からないところがたくさんあって「絶対的真理」の部分が少ないかも知れないが、どの方向にどの速度で打ち上げれば、どの軌道を通って月に到達するかは、科学的真理として確立しているのである。まともな批判をしたいなら、科学と論理についてもっと勉強するべきだろう。
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by ksyuumei | 2006-04-06 10:12 | 論理


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