『国家の品格』の二流性 8

藤原さんは、「自由」と「平等」というものを批判してこれを否定しようとしている。これは、フランス革命が掲げた価値観で、西欧の価値観として代表的なものだけに、藤原さんの批判の対象になったのではないかと思われる。しかし、これは「価値観」なので、否定することは出来ないのではないかと思われる。

価値観というのは、ある視点で対象を眺めたときに、それがどのようなプラスの要素を持っているかと自分が感じる事柄を指しているのではないだろうか。価値観を語るときには、いつでもその視点というものが重要になってくる。ある視点から見ればつまらないものでも、別の視点から見れば大切だと思えるものはたくさんある。

これは、ことわざでいえば「蓼食う虫も好き好き」と言うことだと思う。自分にとっていかに大事なものであるかを語っても、同じ視点を持っていない人から見ると、それは大したことではないと感じてしまうだろう。これは「価値観」に関する限りでは仕方がないことだと思う。




だから、藤原さんの視点で、いかに「自由」と「平等」が低い価値しか持っていなかろうと、それに高い価値を感じる視点というのは他に存在しうる。だから、これを否定することは論理的には出来ないだろう。論理的に正しい対処としては、ある視点の下では価値がない、しかし別の視点ではこういう価値もある、と弁証法的に理解することが正しいだろう。

内田さんが、書かれていることの95%に同意するといったのは、「自由」や「平等」が批判的に扱われる視点の下での批判に対しては同意すると言うことだろうと思う。しかし、「自由」や「平等」が大きな価値を持つと考えられる視点で物事を考えなければならないときは、これを否定する視点は逆に批判されざるを得ない。

藤原さんは自己決定に関することを何も論じていないが、自己決定における責任を考えるときは、「自由」という概念がなければ「責任」という概念も生まれない。「自由」を否定して、例えば藤原さんが正しいと信じている「武士道」に従って行動をすれば、その行動の過程で何か損害が生じるような事件が起こったとき、その責任を誰に帰するかという問題は、「自由」を否定してしまえば考えられなくなる。

そこには「自由」がないのであるから、原理的に「自己決定」はあり得ない。「自己決定」がないのだから、その選択をした責任は個人にはあり得ない。選択をさせた何かが悪いのだということになる。しかし、「武士道」は絶対的に正しい規範だから、そこに責任を帰することもできない。何が悪いという反省が出来ない。結局は運命だから仕方がないと受け止めるしかなくなるのではないか。

「自由」にはマイナスの価値もあるが、プラスの価値もあると理解するのが正しいだろうと思う。同じように「平等」にもプラスとマイナスの両側面の価値があるのだと思う。マイナスの価値の「平等」は「悪平等」という言葉でも呼ばれている。

本来の正しい平等は、条件の違いを考慮した差異を前提とした平等でなければならないと思う。それは、機械的な平等が不正になるときに、その不正を是正するために差異を設ける平等として、これまた弁証法的に理解しなければならないだろう。独占禁止法などという法律は、大企業に制限を設けるという意味では平等ではないが、それは、競争において初めから勝負が決まっているものになってしまうという不平等を是正する制限になっている。より大きな平等を実現するための不平等というものになっている。

現実の「自由」や「平等」というのは、このように弁証法的な矛盾が複雑に絡み合って存在している。それを一律に機械的に一方的な対象だけを考察して、「自由」「平等」そのものを否定するのは論理的な間違いだと思う。藤原さんが、「自由」「平等」を抽象的に扱わずに、具体的にこの場合の「自由」「平等」は問題だという批判をして、その限界を明らかにしていれば、論理的にはまったく問題はなかっただろう。

ある場合には「自由」「平等」は正しく、ある場合には間違っているというのを、具体的な現実に沿って分析すればいいのだと思う。そして、その具体的な現実に従って、「自由」「平等」の限界がある部分は、その限界を埋める、あるいは越える考え方として「武士道」を提出すれば良かったのだと思う。

それをせずに、「自由」「平等」には、これだけのマイナスがあるから「武士道」の方が優れているのだと、抽象的に全体を比べて判断してしまったのが間違いだと思う。これは、条件と場合を分けて、それぞれが優れている面を具体的に指摘すべきだったのだ。一方的に「自由」と「平等」のマイナス面を指摘して、だから「武士道」の方が優れていると主張するのは、一面では正しいが総体としては間違っていたと僕は思う。

藤原さんは、「平等」ではなく「惻隠(そくいん)」で行くべきだと主張している。論理的な対等性ではなく、上の者が下の者に同情をかけるような感情こそが美しい日本の伝統だという主張のように僕には見える。これは、家父長制の下では、確かに美しい伝統に見えるかも知れない。

しかし、この情は、上下関係を前提とするものではないだろうか。つまり、不平等を前提とするものではないかと僕には思える。確かに、「惻隠(そくいん)」を主張するなら「平等」を否定しなければならないだろうと思う。だが、それによって失われるものは無いのだろうか。

昨今の弱者切り捨ての小泉政治を見ていると、弱者に対する惻隠の情を持つことは大事なことではないかとも思えるかも知れない。しかし、それがあれば、ネオリベ路線といわれる小泉政治は乗り越えることが出来るのだろうか。ネオリベ路線も、論理的に必然性が語れるような存在として生まれてきたのではないだろうか。それを惻隠という情緒だけで解決が出来るのだろうか。

「惻隠(そくいん)」で行くべきだと語れば、現実がその方向に行くのであれば、現実の問題の解決は簡単にすむかもしれないが、おそらく、それが実現されるには、論理的な前提があるものだと思われる。その前提が成立しない限り、いくら言葉で主張してもそれは現実のものにはならないだろう。

若者の仕事がなく、不安定な労働条件で働かざるを得ない状況があるときに、若者は働くことをもっと真剣に考える「べき」だと、言葉で語ってもそれが実現されるとは限らない。その主張が実現されるには、若者が働くことをもっと真剣に考えるような社会状況が、客観的になければならないだろう。

マル激のゲストだった山田昌弘さんが語る「希望格差」がある状況で、いったい何人の若者が、今までと同じ意味で働くことを真剣に考えるだろうか。「べき」という言葉は、道徳的な憤激の情緒は仕方のないものがあると思うが、現実的な有効性を持っているかどうかは極めて疑問だ。

マルクスは、かつて人間の意識にとっては、経済的基盤を意味する土台こそが重要だという指摘をした。これは、土台さえ整えば、自然科学的法則のように100%意識が決まると考えると間違いになるが、「べき」という意識の問題は、現実的な条件の整備がなければ、その言葉だけでは解決しないという指摘であれば正しいと思う。

「惻隠(そくいん)」が正しく有効である場合と、それだけでは有効性がない場合とを、具体的に分析して示してくれたなら、僕は藤原さんの意見に賛成したかも知れない。しかし、「惻隠(そくいん)」の場合は、そのマイナス面をまったく語らず、「自由」「平等」の場合は、そのマイナス面しか語らないという論理は、やはりご都合主義的な、主張したい結論を前提に置いているような論理のように僕には見える。

この本の主張は、同じ結論を持っている人には、心地よく響く気持ちのいいものとして受け入れられるだろう。しかし、結論よりも前提が気になる人間には、疑問だらけのものとして伝わってくる。この本がベストセラーになったというのは、藤原さんが主張する結論に対して賛成する日本人がかなりの数でいると言うことだろうか。

その人たちが、情緒的に熱狂して、悪しき民主主義によって日本の歩む道を間違えないように願う気持ちで一杯だ。日本はエライ立派な国だということを前提にして論理を出発させるのではなく、歴史や自然法則など、論理を基礎にして冷静に判断する日本人が増えることを願っている。僕は、藤原さんの主張とは反対に、情緒ではなく論理を判断の基礎に置くべきだと思っている。しかし「べき」だと主張するだけでは実現するかどうかは分からない。論理を使って考えた方が、現実に正しい判断が出来るという実践を示したいものだと思う。
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by ksyuumei | 2006-04-04 08:52 | 雑文


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