『国家の品格』の二流性 6

ロックに関連させて、資本主義的な価値である「自由」「平等」「民主主義」などを批判した第三章の検討をしてみようと思う。この章では、ロックについて次のような記述がある。


「著書中に「人間は生まれながらにして完全な自由を持つ。人間はすべて平等であり、他の誰からも制約を受けない」とも記しました。
 そして、個人は自由に快楽を追求してよい、全能の神が社会に調和をもたらしてくれるから、と述べました。何と無責任でデタラメな発言でしょう。ロックこそは、自由主義、功利主義、近代資本主義の粗と呼んでも過言ではない人です。」


これは、ロックに対する誤解から生まれた解釈ではないかというのが僕の感想だ。ロックという人物を理解しようと思ったら論理的に理解すべきだと思う。ロックは、国が違えば時代も違うという、現代日本人とはまったく感覚の違う人間だ。その人間を、現代日本人の感覚で、情緒的に理解したら、誤解しない方がおかしい。



藤原さんは情緒が大切だと言うことを語るが、これは論理的には条件付きの時にのみ正しい主張だ。論理的判断が必要でないとき、論理的判断が原理的に出来ないとき、その時は情緒的判断が問題がないときが出てくる。どの芸術が好きかというような問題を考えるとき、それは情緒的に答を出しても問題はないだろう。しかし、ロックという人間を評価しようと言うとき、好きだからいいとか、嫌いだからだめだとか言う評価は、僕はまったく信用しない。

まずはロックが主張していることを正しく受け止め、その上でそれが価値があると思えば評価するし、価値がないと思えば評価しない。あるいは、好き・嫌いで評価しても問題はないと言うことを確認してから、そのような情緒的な評価をする。

ロックの生きている時代を考えると「完全な自由」という表現の中の、「完全」と「自由」という言葉は、辞書的に解釈するのではなく、ロックの時代的な制約の下に意味を受け取らなければならないだろうと思う。ロックの時代には「不完全な」「不自由」という表現がされるような事実があったに違いない。それに対する「完全な」「自由」だというふうに受け止めなければならないだろう。

前回考えたように、これは、個人の恣意性を越えた、より上位の全体性のルールを基本原則とした、そのルールの範囲内で許された「完全な」「自由」であると考えなければならないだろう。だから、この「自由」を恣意性と同じ意味で捉えて、恣意性を非難するのは間違いではないかと思う。

「自由に快楽を追求してもよい」という表現も、恣意的な「快楽」という読み方をすれば間違えるだろう。「快楽」というのは、古代ギリシアのエピクロスも「快楽主義者」と呼ばれているが、エピクロスの「快楽」は次のような意味を持っている。


「現実の煩わしさから解放された状態を「快」として、人生をその追求のみに費やすことを主張した。後世、エピキュリアン=快楽主義者という意味に転化してしまうが、エピクロス自身は肉体的な快楽とは異なる精神的快楽を重視しており、肉体的快楽をむしろ「苦」と考えた。」
「エピクロス 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』」


ここでの快楽は、常識的な意味で捉える快楽の、むしろ正反対のものに見える。ロックがどのような意味で「快楽」という言葉を語ったのかを正確に受け止めないと、自分の辞書的な意味で受け取れば、ロックという人間を間違って解釈するだろう。

教養深い藤原さんが、この程度のことを知らないはずはないと思うのだが、情緒を判断の基礎に置いてしまうと、論理的な反省がなくなってしまうので、このような独断的な理解が生まれる可能性がある。判断というのは論理的なものだから、判断の基礎にはやはり論理を置かなければならないと思う。情緒が基礎になっても問題ないのは、感覚の部分であり、好き・嫌いのような個人的な感情の部分だけであると思う。普遍性を持っている「判断」に関わる部分は、徹底的に論理的でなければならないと僕は思う。

またここでは「救済されるかどうかは、神の意志によりあらかじめ決められている」という「予定説」に対する批判が述べられている。


「それにしても、どんなに極悪非道のものでも、救済されることになっているものは救済される、というのは私たちの理解を絶します。仏教の方では基本的に、善をなした人とか、念仏を一生懸命に唱えた人だけが救済されるという、理解しやすい因果律だからです。」


これは、まことに情緒を基礎とした考えにふさわしい批判だと思う。「理解出来ない」という一言で情緒的批判は終わってしまう。これは、情緒の基礎に、その反対のものこそ正しいという思い込みがあるので、情緒的な反論としてはそれで終わってしまうのだ。その反対のものがどうして正しいかは情緒は語ることが出来ない。正しいと思っているから正しいとしか言えないのだ。

藤原さんは「理解しやすい因果律」だと言っているが、これは論理的な説明ではない。あえて言うなら、藤原さんと同じ基礎を持っている日本人には理解しやすい因果律だと言うことになるだろう。もしキリスト教的な論理を基礎にしている欧米人が、この因果律を見たら、「理解を絶します」と感想を述べるだろう。情緒を基礎にすることを肯定するなら、欧米人のその感想もまた認めなければならないだろう。

そうなれば、基本的な情緒が違う日本人と欧米人は、永久に理解し合えないという結論が出てくるだろう。そして、情緒的には、日本は素晴らしい、欧米は間違っていると言うことを基礎にいろいろな判断をしていくことになるだろう。日本がずっと鎖国をして、外国人とまったくつきあわなければ、このような情緒が日本を支配してもいいのかも知れないが、グローバル化が進んだ時代で、果たしてこのような独断的な情緒的判断で生き抜いていけるだろうか。

欧米どころか、つきあいの長いすぐ隣の韓国や中国とも、日本的な情緒はまったくかみ合わなくなってきている。そんなとき、論理はどうでもいい、情緒で判断するのだということでいってしまったら、日本の未来はどうなるのだろうか。国際社会での孤立は避けられないのではないか。

「予定説」というものは、情緒的には理解しがたいものかも知れないが、論理的には十分理解出来るものだ。むしろ、論理的に受け止めることによって、西欧的な宗教観というものを理解しなければならないだろう。

キリスト教における神は絶対的な「全能者」としての存在である。それは純粋に完全な存在なのである。神を信仰するというのは、このような意味での絶対者を受け入れると言うことを意味する。だから、神が絶対者であれば、誰が救われるかは、神にとって分かっていなければならない。その時になってみなければ、誰が救われるか分からないと言うのであれば、その点で神には欠けた能力があると考えざるを得ないからだ。「予定説」は、神が全能であるという前提から当然帰結される論理的な結論なのだ。

神が全能であると言うことが正しければ、「予定説」も正しい。これが論理的関係だ。だから、神が全能であるという信仰を持っていれば、当然「予定説」の正しさも受け入れなければならない。それを受け入れないのであれば、それは、神が全能であるという信仰を受け入れないことになるのだ。これも論理的帰結として当然のことになる。

「予定説」は情緒で受け入れるかどうかを決めるものではないのである。信仰があるのなら必然的に受け入れなければならないのである。それでは、予定されているから、どんな行為をしても問題はないのだろうか。論理的には、そのように感じられるかも知れないが、それはかなり浅はかな論理だろうと思う。

実際には、自分が救われる側の人間なのかどうかは、自分には分からないのだ。神はそれを知っているが自分には分からない。分からないから、勝手に何でもやれると思うのは、考えの浅い人間であって、全能の神としてはたぶんそういう人間は救わないのではないかと、真面目な人間なら思うだろう。

現実には、信仰の厚い人間は、自分は神から選ばれた人間に違いないから、その選ばれた人間にふさわしい行動をとらなければならないと、神の意志を証明する方向の努力をするだろう。神の正しさを証明するのは、選ばれた自分がそれにふさわしい自分だと言うことを示すことで行われる。つまり「予定説」は、勝手に何でもやっていいのだという論理的な帰結を生むのではなく、予定されているからこそ正しく生きるのだという道徳を生む。これがキリスト教的な理解だと僕は思う。

予定されていなければ、その時々の誘惑に惑わされる人間になってしまうだろう。誘惑に落ちて道を誤った人間でも、念仏を唱えていれば救われるなどと言ったら、キリスト教徒はきっとびっくりすることだろう。何と倫理観念のない民族だろうと、情緒的には思うだろう。

キリスト教社会では、倫理観を支える最後の砦が「神の眼」であるというのは、宮台真司氏もよく語ることだ。日本人の倫理観が「他人の目」を基礎にしていることとは違う構造がここにはある。これは情緒的に理解することは不可能だ。論理的に反省することによって初めて両者の違いと整合性を理解することが出来る。

情緒を基礎にして物事を考えることは、理解出来ない他者を排除する考えにつながる。それが日本の素晴らしさだと勘違いしていると、国際社会では日本はますます孤立していくことだろう。日本における資本主義の問題も、論理的な判断が違う問題を、情緒的な判断を基礎にしてベタに持ち込んできたことに原因があるのではないだろうか。

藤原さんが指摘する、拝金主義の問題や、品がなくなったように見える欲望むき出しの行動などは、武士道という心の持ちようで解決出来る問題だろうか。これは、腹が減っている人間に対して、腹が減っていると思うから苦しいのであって、減っていると思わなければいいのだ、と言うようなものではないだろうか。現実には、腹が減っていれば、何かものを食った方がいいのだ。論理的に解決した方がいい。論理的な解決が難しいからと言って、情緒に流れてしまえば、腹は減っていないと思い込んで我慢していくことになるのではないか。まさに、「武士は食わねど高楊枝」になるのではないか。これも武士道というのだろうか。
[PR]
by ksyuumei | 2006-03-30 11:35 | 雑文


<< 百条委の議論を分析してみた 発端となった事実はどういうものなのか >>