『国家の品格』の二流性 5

藤原さんは、第三章「自由、平等、民主主義を疑う」の冒頭で、「論理だけでは人間社会の問題の解決は図れない」という主張をしている。これはある意味では正しい。しかし、正確な言い方ではない。正確には次のように言わなければ正しくないだろう。

<人間社会のすべての問題>に対して

 ・一部は形式論理で解決出来るが、解決出来ない問題もある。
 ・一部は弁証法論理で解決出来るが、解決出来ない問題もある。
 ・その他、対象にふさわしい論理で解決出来る部分もあるが、それでもなお解決出来ない問題もある。
 ・そもそも、解決と言うことが必要でない問題もある。

これは、論理はいろいろと限界があるが、限界の範囲内では十分役に立つと言うことでもある。論理に解決出来ない問題があるからと言って、そのことから論理がだめだという判断は出てこないのである。これは、科学を否定する低俗な批判が、科学に限界があることから科学の否定を結論しようとする考え方と似ている。実際には、科学に限界があっても、その限界を自覚出来るからこそ科学は素晴らしいのである。



論理も、その限界を知って使うことが出来れば素晴らしいものになる。限界を自覚せず、恣意的に対象に対して無理やり論理を当てはめるところに、論理の破綻が起こる。そのような低レベルの論理を考察して、だから論理はだめだと語るのは、「低レベルの論理はだめだ」と言い直さなければならないだろう。

解決が必要でない問題の代表に、三浦つとむさんが批判的に分析した、「人は何のために生きるか」という問題がある。これは哲学青年にとっては魅力的な問題だが、実は解決する必要がない。と言うよりも解決不可能な問題と言ったらいいだろうか。

三浦さんの分析は、「何のために」という目的については、それを作り出した人に問わなければならないという論理だった。人間を作ったのが神であれば、「何のために生きるか」は神が教えてくれる。宗教はまさにそういうものだろう。しかし、人間は誰かに作られた存在ではなく、世界に飛び出してきたのは偶然のことであって、自らを自分自身で作り出す存在である。そうであれば、「任意」の人間に共通する一般的な「何のために」は存在しない。それは解が存在しない方程式のようなもので、解を求めることは徒労に終わることが多い。

実際には、「人」一般に対する「何のために」ではなく、自分という個人が「何のために」生きるのかという問題の解答を探すべきだろう。それならば、十分論理を役に立てて解決出来る問題になる。板倉さんは、科学の素晴らしいところは、問題を科学的に解決出来るように作りかえていくところだというようなことを語っていた。論理も同じだ。論理によって解決出来るように問題を作りかえるとき、論理の素晴らしさを感じることが出来る。論理はそのように使うべきであって、論理の限界を超えるような問題をわざわざ考えて、無理やりに論理を使う詭弁を論理の代表にすべきではない。低レベルの論理によって論理を非難しても仕方がないだろうと思う。

藤原さんの論理には、このように低レベルの存在を持ち出して、だからだめなのだと結論するパターンを感じる。最初からだめな存在を持ち出しているのだから、だめだということが証明されているのではなく、ご都合主義的に結論を先取りした論理を使っているのだと僕には感じる。「自由」に対しても、だめな「自由」を持ち出してきて、だからだめだと結論しているように感じる。

藤原さんは、「自由」=「身勝手」という図式を論理の出発点にする。これは、「自由」の理解としては浅はかだと思うが、この出発点から論理を展開すれば、「自由」のだめさ加減は、「身勝手」のだめさ加減によって導かれる。

また藤原さんは、論証抜きに「人間にはそもそも自由がありません」と結論を語るが、文脈的に考えると、ここで使っている「自由」は、無制限の「自由」という概念だと思われる。確かに「無制限」であれば、そのような存在は抽象的に人間の頭の中の観念にしか存在しないだろう。しかし、これも論点先取りのご都合主義的論理ではないかと思う。存在しないことが分かり切っている存在を持ち出して、それがないと主張するのは、論理的には何ら証明したことにはなっていない。

宮台真司氏などは、「自由」の問題をその社会学講座の中では、「選択可能性」に伴う「意志の自由」として考察している。いくつかの選択肢のどれを選ぶことも出来るという可能性があるとき、どれを選ぶかにおいて「自由」が存在すると考えるのだ。宮台氏の論理展開では、このとき、もっともふさわしい選択肢を選べるときが、「自由」の最高の段階になる。これは、ヘーゲルが語る「自由は必然性の洞察である」という命題に通じることではないかと僕は感じた。

恣意的に「身勝手」に選ぶ「自由」は、「自由」としては低レベルのものだと考えるわけだ。それは、選択による影響というものを計る能力に欠けた選択だから、「自由」としては低レベルだと考える。「不自由感」が残ると考えるのだ。将来の見通しを正しく立てる人間は、選択肢を絞ってその中から選ぶ。それは、それしか選べないという不自由ではなく、他のものも選べるが、あえてそれを選ぶという「自由」なのだ。

藤原さんは、「権力を批判する自由」というものを自由の中で唯一認めるが、これは実際には自由には行えない。権力を批判するには、権力の中から外に出ることが必要だ。権力の中にいてそれを批判すると言うことは、ある時には命がけで行わなければならない大仕事になる。このような選択は「自由」であるとは僕には思えない。

例えば、会社を批判することは自由ですよ、と言いながら批判したときにクビになることが分かっていれば、誰が「自由」に批判するだろうか。「権力を批判することは自由だ」といいながら、そのことによって弾圧をするなら、これは詭弁・欺瞞というものだろう。

現実には、権力批判というのは、害が及ばない範囲でガス抜き的に行われるのがほとんどだ。末梢的な部分で批判するのは、権力にとっては大した問題ではないので、かなりの範囲で許される。しかし、本質的な部分での批判は、権力はほとんど許さないだろう。マスコミの姿を見れば、そのことがよく分かる。権力から落ちこぼれた人間が、ガス抜きのために徹底的に叩かれる姿は、鈴木宗男氏の姿などを見るとよく分かる。

藤原さんが語る「嫌なやつをぶん殴ったりする自由」は、「自由」の中でも最低レベルの「自由」だろう。これは、感情をコントロール出来ない未熟な人間の恣意的な振る舞いであって、本来は「自由」と呼ぶものではなく、感情コントロール能力がないという意味で「不自由」と呼んだ方がいいものだ。このような低レベルの「自由」が「自由」のすべてだと思ったら、それは「自由」を非難したくなるだろう。

この「自由」の考察の過程で、藤原さんはジョン・ロックについて言及している。藤原さんは、「ロックというのは、大物中の大物思想家です」と認めながらも、


「著書中に「人間は生まれながらにして完全な自由を持つ。人間はすべて平等であり、他の誰からも制約を受けない」とも記しました。
 そして、個人は自由に快楽を追求してよい、全能の神が社会に調和をもたらしてくれるから、と述べました。何と無責任でデタラメな発言でしょう。ロックこそは、自由主義、功利主義、近代資本主義の粗と呼んでも過言ではない人です。」


と非難している。この非難は、「ロックの説が正しければ、援助交際もオーケーとなります」と言う非難へもつながっている。藤原さんは、ロックの考えから導かれる「自由」の概念が、「身勝手」な自由に流れ、それが道徳を退廃させるという論理展開をしているようだ。しかし、これは論理の出発点であるロックの理解が浅はかなのではないだろうか。ロックの思想はそんなに単純に不道徳性と結びつけて理解するような浅はかなものなのだろうか。そのような浅はかなものが、なぜ歴史に残るような偉大なものと評価されているのだろうか。

実際には、ロックの偉大さは、その時代の制約を乗り越えた思想に求めるべきだと思う。現在から見れば当たり前のことであっても、ロックの時代には必ずしも当たり前ではなかったことを考えたからこそロックは偉大なのだと思う。その点を理解することが出来ずに、現在の視点で文句を言いたいことだけしか見ていなかったら、ロックの一流性を見ることが出来ず、自らの二流性を反映したロックの二流性を見ることしかできなくなるだろう。それは、実は、そう見ている自分が間違っているかもしれないのに。

藤原さんの、このロックの評価を読んだとき、これは間違っているのではないかと感じて、ロックについて詳しく調べてみたいという動機が生まれた。ロックが語っている「自由」は、藤原さんが非難している「身勝手」という「自由」ではないのではないかと思ったのだ。

藤原さんは、ロックの「自由」を「他人の自由と権利を侵害しない限り自由」と言うことで語っている。これは恣意的な「身勝手」を意味するだろうか。これは、宮台氏がよく語るような、「基本的なルールに従っている限りでは、そのルールの範囲内では何をやっても自由だ」という「自由」ではないだろうか。決して恣意的な「自由」ではない。

内山節さんの『貨幣の思想史』に描かれたロックの像は、国家による「自由」の制限を論理的に正当化しようとする姿に見える。藤原さんが非難する、無制限の自由を認めるロック像とは正反対のロック像がそこには見える。

内山さんの説明では、ロックは自然状態という概念で、理性の下に完全にコントロールされた「自由」が支配している世界を想像していたようだ。この「自由」は、決して他人を侵害しない「自由」だ。しかし、このような自然状態から、他人を支配したいという思いが人間に生まれると、他人の「自由」を侵すという面で、戦争状態が生まれるとロックは考えたようだ。

このような戦争状態は、ある意味では、他人の自由を侵す「自由」を行使していると言えるだろう。無制限の「自由」を認めてしまえば、このようなパラドックスが起こる。「自由」によって「自由」が破壊されるというわけだ。このパラドックスの解決のために、ロックは、平等な万人の上に共通の上級者としての国家を想定し、国家が平等に「自由」を制限すると考えたようだ。

個人が他人の「自由」を制限するのは悪しき制限であるが、国家が個人の上にいて、それが一定のルール(法律と呼べばいいだろうか)に基づいて平等に個人の「自由」を制限すれば、それは戦争状態を回避出来るという利点を生むと考えたようだ。これは、論理的に極めて真っ当な考えなのではないだろうか。

ロックの「自由」を理解するには、基本的なルールの下に制限された「自由」という理解をしなければならないと思う。無制限な恣意的な「自由」だというふうに理解するのは、浅はかな理解ではないだろうか。ロックの偉大さについては、内山さんの本でもう一度確認してみたいと思うが、僕はロックは偉大な思想家だと思う。一流性を持った人だと思う。その一流性を評価せずに、二流性に貶めて受け取るのは、自らの二流性の反映なのではないだろうか。

現在の視点から見れば、ガリレオが語ることのほとんどは初歩的な科学になってしまうと板倉さんが語っていた。そのことを表面的に理解するだけでは、ガリレオの偉大さは分からない。ガリレオの偉大さは、当時の科学の限界をいかに超えていたかに求めなければならない。科学史の専門家の板倉さんは、まさにそういうことを研究していた。内容的には初歩のものであっても、その偉大さを正しく理解すれば、科学の神髄をつかむことが出来る。それが、仮説実験授業の考え方の基本にあって、この授業は科学の神髄をつかむために有効な授業になっているのだと思う。

ロックの偉大さを理解することは、優れた思想というものの神髄をつかむことになるだろう。二流の言説は、そのような神髄という本質をつかまず、現在の視点では初歩的なものに見えるという末梢的な部分で評価してしまうのだと思う。
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by ksyuumei | 2006-03-29 09:48 | 雑文


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