『国家の品格』の二流性 4

「論理は長くなり得ない」(55ページ)と言う記述の内容を批判することにしよう。ここでの二流性は、この議論が俗受けしやすい、論理(理屈)の攻撃になっているところだ。長い論理は屁理屈の代表のように語られ、短い論理は、短絡的な強弁のように非難されている。確かに長い論理には屁理屈であるものも存在するし、短い論理には、何も考えずに現象だけを見て判断しているようなものもある。

しかし、最初からそういう低レベルの論理を挙げておいて、だから論理はだめなのだという結論に導いていくのは、それこそ詭弁という名のご都合主義的論理だ。論理が長くなるのはどういう場合なのかをもっと深く考察し、長さ故に論理がだめになるのか、それとも他の理由の方が大きいのかを考えなければならない。そうすれば、長さというのは現象的・末梢的な属性であって、論理がだめになるのは他の原因の方が本質的であることが分かるだろう。

藤原さんは、数学を取り上げて、数学の論理は必ず各ステップが正しいという、正しさの確率が1だから、どんなに長くなっても、全体の正しさの確率もそれをかけ算した1になるから、それは長くなってもいいのだと説明する。しかし、数学以外の、世の中のことを対象にした論理では、正しさの確率が1にならないから、長くなればなるほど、正しさの確率は小さくなってしまう。だから、長い論理はだめなのだという展開をしている。



これはどこかがおかしいと感じる。しかし、論理に慣れていない人は、どこがおかしいかよく分からないのではないだろうか。長い論理は正しくならないと言うイメージだけが頭に残るのではないだろうか。この説明は、論理全体の正しさと、個々の命題の正しさとが混同されているからおかしいのである。

数学は、いわゆる形式論理と呼ばれている論理である。そこでは、命題の正しさは「真」であるか「偽」であるか二つの値しか取らない。確率で言えば1か0に当たるというのは正しい。だから、正しい前提から論理の展開によって出てきた結論は、論理が正しければ、結論そのものの正しさも保証される。それは、命題の真理値というものが二つしかないからだ。

ところが、形式論理の世界ではない、現実の世界での論理は、命題の真理値が1か0にはならない。いつでも確率的な真理値を考えられるわけではないが、そう考えられる対象もあるかも知れない。そういうものに対しては、正しい前提から導かれた結論は、論理が正しければ、結論の信頼性・つまり結論がどれだけ正しいかという確率は、それを掛け合わせたものになる。

つまり、結論の正しさは、かけ算によって小さくなるが、それはその結論を導いた論理の正しさが小さくなったのではない。その値は、あくまでも結論の個別的な命題の正しさを表す確率に過ぎないのだ。そこに至る論理そのものの正しさは、推論を検討することによってしか判断は出来ないのだ。推論が正当なものであれば、論理としては正当であり正しいのである。結論がほとんど正しくないだろうと思われても、そこに至る論理は正しいと言うことがあり得るのである。

藤原さんはここの説明では、「風が吹けば桶屋が儲かる」という話の展開で、長い論理は怪しいと言うことを語っている。しかし、これは長さに関係なく、この対象を形式論理的に推論することがおかしいのである。元々論理としての怪しさを持っている事柄を例にして、だから長い論理は怪しいと結論するのは、特殊な一例を持って一般化しようとする間違いだ。

この論理のおかしさは、その長さにあるのではなく、因果関係を判断する、その判断のおかしさが論理のおかしさとして出てきているのである。「風が吹けば必ず埃が立つ」とは限らないのに、この因果関係を必然的なものとして、形式論理のように推論を進めれば、それはおかしな論理になる。おかしな論理を例に持ってきて、だから論理はおかしいというのは、ご都合主義的な推論だ。

実際には、長い論理が怪しくなるのは、対象の持つ性質の難しさが反映するのだと僕は思う。難しい対象を語るときには、その対象の多面性から全体像を把握して、あらゆる角度から論理を展開しなければならない。そうすれば必然的にそれは長くなり、その視点を間違えれば、そこで論理がおかしくなる。マルクスの『資本論』が難しいのは、「資本」という極めて難しい対象を分析しているからであって、その記述が長いからではない。

だから、どんなに長い論理であっても、その難しさを的確に捉えて正しい論理展開をしているものなら、それは少しも怪しくならず、全体像との調和の取れた整合的な論理になるはずだ。また、対象の本当の難しさを捉えることが出来ずに、現象を短絡的に直結して判断すれば、短くわかりやすい論理にはなるが、まったく的はずれの間違った判断をもたらすことになる。短い論理の本当の問題というのは、本質を捉えられない、現象を直結しただけの短さが問題になるのだ。たとえ短い言葉で語っても、それが本質を捉えた単純さであれば、その論理は、実に深い真理を語っていることになる。

小泉さんが、靖国参拝問題で他の条件をすべて無視して、「それは心の問題だ」と語るのは、現象を短絡的に直結した、分かりやすくはあるが浅はかな論理だ。それに対し、「ものはすべて原子で出来ている」という原子論の考え方は、短い単純な言葉であるが、それは世界の存在のすべて(これは人間が出会う物質的存在のすべてという可能無限の対象という意味でのすべて)にわたっての真理を語る実に深い論理と言うことになる。

論理にとって長いか短いかは本質的な問題ではなく末梢的な事柄だ。それを、低レベルの論理だけを例にして、俗耳に入りやすい話として展開する。ここに僕は二流性を感じると共に、これが俗耳に入りやすいという点で、ベストセラーに通じる要素かとも思う。

いじめに対して「卑怯」を教えよという話は、具体性を持っているだけに、藤原さんの基本的な考えが色濃く出ている話のように見える。抽象論の展開では、それにふさわしい例を出さずに、特殊性を一般性にすり替えていても、なかなかその欠陥には気づかない。より一般的な存在を自分で探してきて、論理展開を構築し直さないと、その論理のすり替えになかなか気づかないからだ。

長い論理にも、それが怪しいものではなく、見事な真っ当な論理が存在することを知らなければ、藤原さんの例がふさわしいものではないことに気づかないだろう。しかし、具体的に語られた論理展開は、それが具体的なだけに、論理のすり替えが際立ってよく見えてくる。

藤原さんは、いじめの対処に、学校にカウンセラーをおいたりする方法を、短絡的で悪しき論理の結果だと批判する。これは、ある意味では正しい批判も含んでいる。いじめの深い分析がここにあるようには見えないからだ。しかし、だからといって、非論理的な「いじめが多いから卑怯を教えましょう」と言うことが正しいことがなぜ結論出来るのだろうか。

これは、論理的でないと自らも語っているから、正しさを客観的に示すことは出来ない。これが正しいことは藤原さんが信じている、と言うことが押しつけの根拠になっている。だが、これの正しさを信じていない僕のような人間は、なぜこの押しつけを受け入れなければならないのだろう。これは、論理ではないから怪しくてもかまわないのだろうか。論理は怪しいと困る。論理の概念に反するからだ。だが、論理でなければ別に概念に反することはないから、怪しくてもかまわないのだろうか。

「大勢で一人をやっつけることは文句なしに卑怯である」というのは、絶対的に正しいことだろうか。これは、ある条件の下では正しいだろう。それは対等の力での勝負をしなければならないと言うルールが存在するときは卑怯になる。しかし、そのようなルールが存在しないときは、戦術としてこのようなものが選ばれる可能性はいくらでもあるし、それが正当化される論理も構築出来る。

毛沢東のゲリラ戦の考えでは、圧倒的に力が上の敵と戦う場合に、正面からぶつかれば勝てないことはハッキリしているから、敵の一部を孤立させて、孤立して力が小さくなった敵の一部を倒すことによって、全体的な勝負の展開を進めていくというものがあった。これは、その一部の孤立させた相手に対しては、大勢で一人をやっつけるというものに近い戦い方をする。しかし、これは正当化される。

それは、敵というものが、自分たちを責めてこなければ抵抗する必要はないと言うことから帰結される。敵がせめてくることこそが不当なことであり、侵略であるという状況では、抵抗することは権利である。そして、その抵抗に現実的な有効性を持たせようとすれば、このような戦術で抵抗することが考えられる。これを「卑怯」と呼ぶのは、侵略者のご都合主義である。「卑怯」という無駄な言葉を吐く前に、侵略をやめて撤退することこそが正しい。なぜなら、侵略行為そのものが「卑怯」という概念にふさわしい行為だからだ。

もっとも、このように論理的に反論しても、論理はだめだと思っている藤原さんを説得することは出来ないかも知れない。「卑怯」を教えることが絶対的に正しいと思っていれば、どんなに論理的に反論しても無駄だろう。

しかし、「卑怯」というのは、短絡的に現象を直結して短い論理で判断すれば、それはご都合主義的な判断になり、「卑怯と思うものが卑怯だ」という判断になる。これを深みのある長い論理で判断しようとすれば、それが正しい論理であれば、「卑怯」の弁証法性を考察することになるだろう。そして、どんな現象でも、簡単に「卑怯」などと言うことは出来ない。「卑怯であるかも知れないし」「卑怯でないかも知れない」という矛盾が常に見いだせることに気がつくだろう。

「卑怯」がすぐに判断出来るようなら、それは短絡的な短い論理に過ぎないのである。藤原さんは、藤原さんが批判する論理の問題から逃れることは出来ない。「卑怯」は、一見論理の対象でないように見えても、その判断に対しては常に論理が含まれてしまうのだ。実践は常に理論を含むのである。かくして、「卑怯」は、藤原さんの予想に反して、現実的な有効性を持たない。いじめの克服には、もっと現実を多面的に検討した深い論理が必要なのである。

いじめについては、社会学者の内藤朝雄さんが『いじめの社会理論』で実に深い考察をしていると思う。この考察に対して、現実的ではないとか、理想論だとか言う批判もあるようだが、これは難しい問題の解決を考察しているので、その答は簡単には出せないと言うことなのだと思う。だから、藤原さんのように、「卑怯を教えればいい」というような簡単な答は、この問題の難しさをまったく考えていないように僕は感じる。内藤さんの主張に僕が共感するのは、難しさを単純に解消することなく、その難しさをよく分かるように説明してくれるからだ。一流の言説というのは、そのようでなければならないのではないかと思う。
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by ksyuumei | 2006-03-27 22:22 | 雑文


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