内山節さんの『貨幣の思想史』を読んでいたら、ウィリアム・ペティが国家の富を論じた部分で、その論理の出発点となるものを、実に見事に論理的に考えている部分を発見した。この出発点は、情緒をまったく排して、徹底して論理的な考察をした結果として導かれている。それだからこそ極めて説得力があるように僕には見える。
ペティの問題意識は、当時オランダに押され気味だったイギリスの国力を増加させるところにあった。国力の増加には国家の富を増やすことが必要だと考えたのだ。これは極めて論理的な展開だ。 国家の力が大きい →(ならば) 国家の富が大きい と言う仮言命題が正しいと考えるなら、国家の富の増大は、国家の力の増大の「必要条件」になる。これなしには国家の力の増大は考えられないものになる。なぜなら、この対偶を取ると 国家の富が大きくない →(ならば) 国家の力が大きくない と言うことになるからだ。実際には、国家の力というものの定義が厳密には出来ないので、富だけが力の源泉ではないだろうと思う。倫理的な正しさも国家の力に関わるのではないかと思う。最近のアメリカの非倫理的な行動、イラク戦争においても、野球のWBCにおいてもそれが見られるが、それはアメリカの凋落を表していると見るなら、これも国家の力に関わるものと見られるだろう。 ペティが、国家の力を論じようとしたときに出発点に選んだ国家の富は、ペティが情緒的に選んだものだとは思えない。もし、情緒で選ぶとしたら、「金持ちは力がある」というのを素朴に感情的に信じて出発点にしたものだと考えられるが、もし、そのような選び方をした出発点なら、僕はペティの論理をほとんど信用しないだろう。 僕がペティの論理を信用するのは、その出発点の選び方が、このように論理的に理解出来るからだ。そして、それを出発点にしながら各論を展開するときも、各論の出発点が論理的に理解出来る。論理によって選ばれていることを理解出来る。そのように論理的に出発点を選ぶことの出来るペティは、この考察においては一流の人だったのだなと感じる。歴史に名を残すだけの偉大さを持っている人だと僕は思う。 ペティは、この論理を展開するのに、国家の富の大きさを客観的に判断する基準として貨幣というものを使うことを、その出発点にしようとしている。これも極めて論理的に理解出来る、しかも納得出来る合理的な判断だ。そしてさらに、この出発点の前提としての出発点に、「富とは何か」「富を生み出す源泉は何か」と言うことも問いかける。これも、論理的に考察された結果としての出発点だ。決して情緒的に選ばれたものではない。 まず富というものを、ある種の価値と考えると、価値を生み出すものとしてさまざまなものが考えられる。素朴にすぐ思いつくのは人間の労働だろう。しかし、それ以外にも、自然の恵みとして利用出来るものは、人間にとっての価値を生み出す。このように価値には多様性がある。その多様性を比べる基準というのは実際には見つからない。比べられないものを比べることになるからだ。 例えば情報の大量さと、効率的な利便性にあふれた都会と、空気がよい自然の豊かさに恵まれた田舎の価値というものを比べようとすると、これは、立場によってどちらの価値が高いかが分かれてしまうだろう。客観的に、ある基準でこれを比べると言うことは論理的には出来ないだろう。論理的に比較出来るなら、誰もがその比較に賛成しなければならないのだが、どちらもそちらの方が価値が高いと主張する人が出てくることだろう。 この価値は、内山さんの本を読むと、「使用価値」として表現されているものだと思われる。「使用価値」は、どのような場面で使用されるかという、現実的な条件によって価値の高さが決まる。だから、条件を捨象して価値の大きさを比べることは出来ない。そうすると、これは国家の富を比較する基準としては使えないと言うことになる。使用価値でない価値を基準にして比較しなければならないだろう。このあたりのことは、内山さんの本では次のように記述されている。 「例えば私たちは山野を歩いて「自然」から採取し、食卓を豊かにすることが出来るが、そんなものは国家の富の増加には役立たない。つまり生活文化次元で自己展開し終了してしまうような経済活動は、国府の増加に結びつかないのである。とすれば、当然、農村共同体などで人々が営みとして行っている、いわば生活次元の経済活動と、国府の増加に結びつくような経済活動とは、どこかで区別されなければならない。」 国富の考察においては、生活次元での経済活動という「使用価値」は捨象されて無視されなければならない。人々の生活が、役に立つ良いもので構成されているかと言うことは無視される。これを無視しているから、国富の考察はケシカランというような批判をする人がいたら、これは論理の無理解を露呈していることになるだろう。論理にとっては捨象することは必要不可欠のことなのだ。これを捨象しないと言うことは、論理ではなく情緒に流れて判断することになる。 ペティは正しい結論が欲しかったので、情緒に流れることなく論理を選んだのだと思う。国富の考察においては「使用価値」を無視することが正しかったので、その出発点に「国富は貨幣の量で量られる」と言うことを選んだのだと思う。貨幣こそは、「使用価値」を持たない財だからだ。貨幣は交換の道具として使われるだけで、具体的な有用性を持たない財だ。これによってしか、国富というものは客観的には計れないだろうとペティは考えたのだと思う。 内山さんは、 「今日では私たちは国富として「国民総生産」を基準にすることが多い。この国民総生産でも、市場経済を通過しない生活次元の経済は除外されている。除外されていると言うより、計算方法がないのである。そしてペティが着目したのも、この計算という方法だった。」 と語っている。ペティが考えた論理は、論理としての正当性を持っていたから、このように現在に通じる判断にも貫かれているのだろう。内山さんが引用している次のペティの言葉は、ペティが情緒を排して、論理をこそ基準にして出発点を判断していることを物語っている。孫引きしておこう。 「私がこのことを行う場合に採用する方法は、……比較級や最上級の言葉のみを用いたり、思弁的な議論をする変わりに、……自分のいわんとするところを数(Number)・重量(Weight)または尺度(Measure)を用いて表現し、……個々人の移り気・意見・好み・激情に左右されるような諸原因は、これを他の人たちが考察するのにまかせておくのである。」 ペティにとっては、情緒的判断などは自分の関心の外なのである。どんなに、個人の生活の豊かさが大事だと心情的には思っていても、国富の考察においては、個人の生活がどうなるかと言うことは無視して考察する。それを無視しなければ、正しい論理的展開が出来ないからだ。それが論理というものであって、それを冷たいとか何とか、情緒的に非難するのは、論理に対する無理解の現れである。 貨幣というのは、資本主義社会においては、「交換価値」という商品の価値を示すものになる。これは「使用価値」を捨象することによって得られる概念だ。資本主義社会における富も、この貨幣で計るとするなら「使用価値」は捨象される。国家の富については、ペティと同じ考察で、この通りでいいだろうと思う。個人の富についてはどうだろうか。 個人の富についても貨幣でその量がはかられるとしたら、そこでは「使用価値」は捨てられ、実際に役に立つという属性は価値から抜け落ちてしまうだろう。経済学的には、そのような前提で考察しなければならないときが出てくるかもしれないが、哲学的・倫理的な考察においては、このような前提は間違いとなるだろう。論理の前提は、好みの問題ではなく、その前提がどのようなものを考察したいのかという、理論の全体像に関わる目的と深く関係してくるだろう。 内田樹さんが語る「労働」「贈与」という言葉の理解も、実はそれが前提としている条件において、「使用価値」や「交換価値」「貨幣」という問題が複雑に絡み合っているのではないだろうか。複雑な現実存在に対して、その複雑性を保ったまま内田さんは、その構造を語ろうとしているのではないかと思う。 「使用価値」と「交換価値」の問題は、三浦つとむさんが語るマルクスの説明で理解した範囲のイメージか持っていない。「使用価値」が個別的な現実性と関連した属性であり、「交換価値」は、そのような個別性を捨象した「社会的平均労働」と結びついた属性であるという理解をしていた。「交換価値」は「使用価値」ではないというイメージを持っている。 現実の存在は、資本主義社会で流通する商品であれば、「使用価値」と共に「交換価値」を持っている。互いに否定的関係にある対立を背負っているという意味で弁証法的な対象だ。資本主義社会においては、これが財産であると言うことが人間にどんな影響を与えているのか。これを論じたのが、内山さんのこの本であるような気がする。その流れで内田さんの文章をもう一度眺めると新たな発見が出来そうな気がする。この、新たな発見という要素は、その言説が一流であると言うことの証なのではないかと僕は思う。
by ksyuumei
| 2006-03-27 12:11
| 論理
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