『国家の品格』の二流性 3

『国家の品格』では「重要なことは押しつけよ」(49ページ)という議論が展開されている。これは理由なしに正しいことがあるという前提から、それは押しつけることこそが正しいという主張をしているのだと思う。これは一種の「パターナリズム」というものだろう。

「パターナリズム」というものは、僕は嫌いなのだが、一定の条件の下でそれが正しくなることもあると思う。これは、本人の自己決定権という意志の自由に反して、他人が何らかの決定をしてやることになる。それは、例外的に正しくなる場合があると理解しなければ、自己決定権を侵害することになるだろう。

例外的に正しくなる場合とは、本人の決定よりも、専門的な知識を持っている他人が判断する方が絶対的に正しい決定が出来るという場合が一つだ。これは、患者が医師に治療法の決定をゆだねる場合などがそれに当たるだろう。しかし、この場合でも、その医師に決定をゆだねるかと言うことは自己決定的に行わなければならない。どの医師に相談した方がいいと言うことまでは押しつける正当性はないだろう。この場合は「絶対的」と言うことが条件のポイントになる。「絶対的」ではないときは、押しつけには正当性がなくなると僕は思う。自分の判断で、たとえ結果的に失敗をしたとしても、それは失敗することさえ権利の一つだと僕は考える。



パターナリズムが正しくなるもう一つの場合は、自己決定をする主体にその能力がないと判断される場合だ。いわゆる禁治産者と呼ばれるような人はそのような存在になるだろうか。これは、押しつける主体に絶対的な正しさがある場合の、反対の極になるような条件だ。押しつけられる側に絶対的な無能力がある場合とでも言えばいいだろうか。

藤原さんが押しつけるパターナリズムも、その問題に関しては藤原さんの方が「絶対的」に正しいのであれば、その押しつけは正しい。しかし、僕にはそうは思えないので、この押しつけは拒否したい気持ちの方が大きい。

藤原さんは、子供に対しては「初めに何かの基準を与えないと、子供としては動きが取れない」と言うことから、論理で説明出来ないことは押しつけていいのだとパターナリズムの正当性を語っているが、これは、押しつけられる側の無能力を前提としてパターナリズムの正当性を語っている。論理で説明出来ないことが、藤原さんの判断では絶対的に正しいのだと言うことを前提としているのではない。

藤原さんが語るパターナリズムは、子供が子供のまま、つまり無能力な存在が無能力なままでいるのなら、それはずっと正当性を保ち続けるだろう。しかし、子供の能力が、自己決定出来るほどに高まったら、絶対的な正しさのない判断はもう押しつけることが出来なくなる。それは、どこかの時点で自己決定にゆだねなければならなくなるだろう。

しかし、藤原さんの押しつけは、相手が無能力な場合だけに限るのではないように見える。「論理には出発点が必要」という理由で、その出発点は押しつけていいのだという論理展開をしているからだ。相手の能力に従って判断しているのではなく、出発点の必要性がそれを押しつける正当性に結びつけられている。これはパターナリズムとして間違っているのではないかと僕は思う。

論理には出発点が必要だとしても、それが絶対的に正しいということは言えるのだろうか。それが確認されないのに、出発点が必要だと言うだけで何らかの押しつけがされるなら、それは権力者の都合のいい恣意的な押しつけになるのではないだろうか。

藤原さんは、論理の出発点が、論理によって選ばれるのではなく「主にそれを選ぶ人の情緒なのです」と語っているが、僕はこの判断は間違いだと思う。僕は、論理の出発点を情緒で選ぶ人を信用しない。論理の出発点は、論理によって選ばれるべきだと思う。そうでなければ、どうして他人がその主張を理解して賛成するなどと言うことが出来るだろうか。

もし情緒で選ばれた主張を、その選択だけで、理由なしに正しいと認める人がいたら、それは何も考えずに情緒だけでただ気に入ったから賛成しているだけに過ぎない。僕はそのようなものを論理的な判断だとは考えない。

実際には、論理の出発点というのは、対象の全体像という「本質」を把握したときに、全体の構造を理解するのにふさわしい出発点が選ばれるのだ。それは、情緒的に好みで選ばれるのではない。また、このように選ばれた出発点のみが「絶対的」な正しさを獲得するのであって、パターナリズムの正当性をもたらす出発点になる。情緒的に選ばれた出発点は、何ら押しつけの正当性を持っていない。それが好きな人はそれを選べばいいが、好きではない人がその出発点を選ばないとしても、それはまったくかまわないのである。

数学における論理の出発点である公理は、そこで展開したい数学的世界の全体像を把握して、その構造にふさわしい公理として論理的に選択されなければならない。そこには、正しいとされる命題が証明されるという証明可能性や、互いに独立して、他の公理からは導かれないという独立性の問題、あるいは公理同士が矛盾していないなどと言うことが考慮されて選ばれる。

このような配慮の下に、出来るだけ数を減らしたり、記述が厳密で簡明であったりというような要素を考慮して、もっともふさわしいと思われたものが数学者の賛同を得て、価値ある公理系として理論の出発点になる。公理系を好みで選んだ理論など、数学者は見向きもしないだろう。

藤原さんは数学者だから、数学における論理の出発点を考察したならば、それを情緒で選ぶなどという発想は出てこなかっただろうが、数学以外の問題では、その出発点が情緒的に選ばれているようにしか見えなかったのかも知れない。しかし、情緒的に選ばれているように見える論理など、論理としては欠陥品なのだと思った方が良かったのだと思う。その欠陥品を基準にしてしまったところに、ここの判断の間違いがあるのだと思う。数学以外の分野でも、論理的に高い水準にあれば、その論理の出発点は決して情緒的に選ばれたものではない。その理論の全体像を把握した広い視野を持った人によって、もっともふさわしい出発点が論理的に選ばれているのだ。

逆に言えば、論理的に選ばれているのではない出発点は、それを押しつけることの正当性を持たないと言える。情緒で選ばれた出発点は、まさに情緒によって賛同する人が、自己決定的にそれを選び取ればいいのであって、他人に押しつけるものではないのである。

藤原さんが語る「最悪は「情緒力がなくて論理的な人」」(53ページ)という主張は、誤解を招く言い方であり間違いだと僕は思う。僕は、「情緒的な判断しかできない非論理的な人」こそが最悪だと感じるからだ。藤原さんは、ここで


「仮に彼が出発点Aを誤って選んだとする。もちろん後の論理は絶対に間違えない。すると、後の論理が正しければ正しいほど、結論は絶対的な誤りになります。」


と語っているが、これは形式論理的には間違いだ。形式論理的に正しい推論は、<前提が正しければ、結論の正しさを保証する>。しかし、前提が間違っているときは、結論が正しいかどうかは分からないと言う理解をすることが正しい。だから、間違った前提から正しい推論で得られた結論は、それが正しいと主張することが間違いなのだ。正しいかどうかは、論理では保証されないのだ。

前提が間違っていても、結果的に正しいことを言える場合がある。例えば天動説は、太陽が地球の周りを回っているという、物理的な現象を語る場合においては間違えていた。しかし、視覚現象に限って言うならば、この出発点の間違いはその現象の予想に影響を与えなかった。天動説であっても、太陽の動きを観察して日食の正しい予言は出来るのである。出発点を間違えて、正しい論理展開をしたときに、「結論は絶対的な誤り」になるとは限らないのだ。

藤原さんのこの主張は、論理よりも情緒の方が価値が高いと思っている人には受け入れやすいだろう。まさに情緒的にこの主張に賛同したくなるに違いない。しかし、このレトリックは、論理の評判を落として、その落ちたぶんだけ情緒の評判をあげるという効果をねらったものに過ぎないだろう。

情緒の方が論理よりも価値があると言うことを、情緒的に語る人を論理的に批判しても仕方ないと思うが、藤原さんは、そのような主張を論理的に展開しているので、これは論理的に批判する価値があると思う。ここの部分は、感情のフックに引っかけて、間違った論説を情緒的に受け入れさせようとしているところで、言説としての二流性を感じるところだ。

ここは、言説としては二流だが、もし藤原さんが、そのことを百も承知で、あえてそのようなレトリックを駆使しているとしたら、何が大衆的にポピュラーになるかという判断では、一流の人なのではないかと思う。あえて二流の表現を選ぶ人は、ベタに二流の表現をする人と違って、一段高いところから世界を眺めることの出来る一流の人なのではないかと思う。だから、僕はこの本には二流性を感じるが、藤原さんという人に関しては、一流なのか二流なのか分からない。もし、あえてそのような表現をしているのなら、一流の人だろうと思う。その時は、そのようなことをする動機に大きな関心が生まれるが。

藤原さんの論理に対する攻撃は、俗耳に入りやすい。論理に辟易としている人にとっては快哉を叫びたくなるだろう。ごちゃごちゃと理屈を言って文句を言う人間よりも、情が厚い、黙って人のために尽くす人間の方が好きな人が多いだろう。これが大衆受けしてベストセラーになる理由が、このあたりからはよく分かる。

しかし、藤原さんが語る論理は、攻撃されても仕方のない水準の低い論理しか取り上げていないのではないだろうか。それと対抗するなら、水準の低い恣意的な情緒を取り上げなければならない。そうすれば、情緒の悪口などはいくらでも言えることになるだろう。

情緒の最も優れた部分と、論理のもっとも劣った部分を比較して、だから論理はだめで情緒がいいのだと主張するのは、ご都合主義的な言説だと思う。もし両者を比較するなら、同じレベルで比較しなければならない。低い水準のものを比較しても、両方を罵倒するようなことしかできないから、比較するなら、最も高い水準のものを比較すべきだろうと思う。

もしそのような比較をすれば、その比較にはほとんど意味がないことが分かるだろう。情緒も論理も、両者を排他的に否定するものではなく、足りない部分を補うものだからだ。論理を否定して情緒を肯定したいという思いが、このような無理な論理展開をもたらすのだと僕は思う。
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by ksyuumei | 2006-03-27 09:55 | 雑文


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