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「贈与」の考察 2

ジョン・ロックについて調べようと思って図書館で借りた本の中に『貨幣の思想史』(内山節・著、新潮選書)という本があった。これがなかなか面白かった。人間にとって貨幣がどういう意味を持っているのか、なぜ貨幣を求めるのか、というのを考察している。内山さんは経済学者ではなく哲学者なのだが、貨幣そのものの考察ではなく、人間にとっての貨幣の意味を考察するという点では、内山さんが哲学者であったが故に面白い視点を語れたのではないかと僕は感じた。

この本の第一章の冒頭に次のような記述がある。


「言うまでもなく、部分的な交換財としての貨幣の成立も、稀少物質や何らかのものが貨幣と同じように交換財として利用されるようになった時代も、遙かに昔まで時代を遡らなければならない。だがそのような貨幣は、本書の対象外である。なぜなら中世後期に入って、都市社会から今日に受け継がれていく「近代的貨幣」が登場してくるまでは、貨幣は交換のある部分を担っているに過ぎず、富の絶対的な価値基準ではあり得なかったからである。よく知られているように、それまでの農村共同体内では、交換は共同体的慣習に従って主として贈与の形で行われていたのであり、この形は中世都市でも領主と騎士の間などでしばしば行われていた。貨幣は近代的な商品経済が台頭してくるまでは、普遍的な流通財ではあり得ず、すべてのものを購入出来る普遍的な商品としての機能を確立してはいなかった。とすれば、貨幣が富の絶対的な価値基準になり得たはずはない。」




ここでのテーマはあくまでも貨幣についてなのだが、この文章の「交換は共同体的慣習に従って主として贈与の形で行われていた」という記述が僕の印象に残った。「交換」が「贈与」だったというのは、「労働」と「贈与」の関係を考えるのに、何らかのヒントを与えてくれるのではないかと感じたのだ。

交換というのはお互いの財を交換することだと考えられる。その財はどこから得られるのだろうか。その財を得る手段こそが「労働」ではないかと感じる。「労働」で得られた財を交換するとき、その交換が原初的には「贈与」だったというのは、何かを象徴しているのではないかと感じるのだ。

内山さんの関心は直接的には「贈与」ではないので、ここから得られたのはヒントだけなのだが、内田さんもどこかで似たようなことを語っていたことを思い出した。結果的に交換になるような贈与について語っていたことを思い出した。

「2004年04月03日 ジュンク堂と沈黙交易」というエントリーに次のように書かれている。


「「沈黙交易」というのは、交易の起源的形態で、ある部族と別の部族の境界線上にぽんと物を置いておくと、いつのまにかそれがなくなって代わりに別のものが置いてある・・という、交易相手の姿も見えず、言葉も交わさない交換のことである。」


これは、交換しようという約束事によって置かれているとは考えにくい。むしろ、贈与として置かれたものをもらった相手が、そのお返しに置いていったものが、結果的に交換になったと考えた方がいいのではないだろうか。内田さんも次のように語っている。


「交換というのは「私が欲しい物を君が余らせている。君が欲しいものは私が余らせている。おや、ラッキー。じゃあ、交換しましょう」というかたちで始まるものではない。
そういうのは「欲望の二重の一致」と言って、「ありえないこと」なのである。
交換においては交換される物品の有用性に着目すると交換の意味が分からなくなる。
交換の目的は「交換すること」それ自体である。」


交換がまずは「贈与」から始まるという解釈の合理性は、交換がそれ自体で発生すると言うことの合理性が考えられないことから来る妥当性だ。交換は、何かの結果として出てきたものであって、最初から交換を目的とした行為があるとは、内田さんが語るように、「「欲望の二重の一致」と言って、「ありえないこと」なのである」と僕も思う。

あえて言うなら、交換の期待は好奇心とでも言うものから生まれるのではないだろうか。自分にはないものが手に入ると言うことの好奇心だ。自分はそれを持っていないと言うのは、手に入れたい価値になるのではないだろうか。

相手が何をもっているかは分からないけれど、自分が過剰に生産した労働の成果を置いておくという発想が、何らかのきっかけで生まれたかも知れないな、というのはあり得る想像だと思う。そして、それを見た誰かも、同じように自分にないものが手に入るといいなという思いから、また何かを置いておくという「贈与」をしたのではないだろうか。

内田さんは、


「私たちが交換に求めているのは純粋状態のコミュニケーション、すなわち「私の理解も共感も絶した他者と、私はなお交換をなしうる」という事実を確認することなのであり、そのような能力をもつことで人類は類人猿と分岐したのである・・・」


とも語っている。自分にはない何かを期待するということをコミュニケーションだと捉えれば、何となく同じようなことを言っているのではないかと感じた。交換というのは、単なる功利的な利益交換ではなく、人間的なコミュニケーションを基礎にしていたからこそ、「贈与」がその基本になったのではないだろうか。

内山さんが語るように「領主と騎士の間など」の交換も、基本が「贈与」だったというのは、そこにコミュニケーションの要素を入れたかったからではないかと思える。そして、貨幣の発明によって、この「贈与」の側面が、純粋に「交換」だけに集約されていくようになったのではないだろうか。つまり、コミュニケーションが失われていったのではないかと思われる。

貨幣は、最初から交換の目的を担った存在のように思われる。特に賃金という形で支払われる貨幣は、労働との交換(本当は労働力との交換なのだが)で得られるように見える。そうすると、そこでは「贈与」というコミュニケーションは忘れられ、交換の正当性のみが語られるようになってしまうような気がする。

内田さんが「2005年05月07日 サラリーマンの研究」で語っていることは、賃金というものに関わる「贈与」のコミュニケーションだったのではないかと感じるようになった。内田さんはここで


「「オレ」の稼ぎで「あいつら」を食わせている、と思っているサラリーマンはたくさんいる。
たくさんどころか「全員」と申し上げてもよい。
だからその方たちは家に帰っても、つい「誰の稼ぎで食っていると思っているんだ」という常套句を口にする衝動を抑制しきれない。
しかし、これは彼らの偽りなき本心であり、まさに「オレが〈あいつら〉を食わせている」という構文こそが資本主義社会における労働者の心性を端的に表しているのである。
「あいつら」というのは抽象的な概念である。
別に特定の誰かを指しているわけではない。
しかし、彼らはその状態を「停止せよ」とは言わない。
「〈あいつら〉がオレを食わせる」ような状態を望んでいるわけではない。
そうではなくて、「オレが〈あいつら〉を食わせている」ことを承認せよ、と迫っているだけなのである。
その承認さえ得られるならば、「オレ」はいつまでも〈あいつら〉に貪り食われるままになっていることを厭わない。
サラリーマン諸氏はそうおっしゃっているのである。」


と語っている。これは、サラリーマンが、賃金以上に働いて「贈与」する労働の成果というものが、「贈与」であるが故に示しているコミュニケーションを語っているのではないかと思った。もし、それが「贈与」でなかったら、このようなコミュニケーションは生まれないだろう。

「贈与」がコミュニケーションを生むと言うことが労働の本質だったら、「贈与」を失った労働は、コミュニケーションも失ってしまうかも知れない。資本主義的な、効率性優先の労働は、「贈与」ではなく搾り取られているという感覚を労働者に与え、そこからコミュニケーションを奪っているのではないだろうか。

古いイタリア映画の「鉄道員」では、彼らがどれほど自分の仕事に誇りを持ち、仕事をすることを楽しんでいるかが描かれていた。彼らは、もうしなくてもいいと言っても、暇さえあれば仕事をしたがるかも知れない。仕事の結果としての「贈与」によるコミュニケーションが素晴らしいものに見えるからだ。

高倉健主演の「ぽっぽ屋」でも、鉄道員としての仕事に生き甲斐を持つ男が描かれていた。しかし、日本人的な感覚からか、イタリア映画の「鉄道員」ほどの底抜けの喜びは表現していなかった。仕事の中に「贈与」があり、それがコミュニケーションを成立させているとき、人間はそこに仕事の喜びを見る。

この「贈与」によるコミュニケーションに対して、内田さんが「2006年02月23日 不快という貨幣」で語っていた「労働」は、マイナスの「贈与」を伴った、非コミュニケーション的なものに見える。

それは、「不快」というマイナス価値をもたらす「労働」なので、自分から何かを奪っていくのを感じてしまう。マイナスの「贈与」を生じさせるものになっている。プラスの「贈与」であれば、そこに人間的なコミュニケーションを生むきっかけになるが、マイナスの「贈与」は、失ったものを取り戻すという動機しか生まなくなる。

自分にたまった不快を、相手に吐き出して不快の量を減らすと言うことが「労働」になる。ここにはコミュニケーションはない。相手がそれを欲しがるかどうかという配慮は全くなく、自分がそれを抱えているのが嫌だという自分の思いから、そのような「労働」をしていくことになる。

もし、コミュニケーションが成立するなら、プラスの「贈与」によってマイナスを埋めることを考えるだろうが、マイナスを排除してゼロにすることによってしか不快を取り除く方法がなくなってしまっている。そう内田さんは言いたかったのではないだろうか。

プラスの「贈与」を取り戻す道はあるのだろうか。資本主義の発展の結果として、労働から「贈与」が失われることは必然的なことなのだろうか。今週配信の丸激は、『希望格差社会』の山田昌弘さんがゲストだったが、そこで議論されていたことは、まさに「労働」から失われたコミュニケーションを取り戻すと言うことだったのではないかと感じた。
by ksyuumei | 2006-03-26 13:06 | 雑文


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