『国家の品格』の二流性 2

内田樹さんは、「藤原さんの言っていることのコンテンツについては、ほぼ95%私は賛成である」と語っていた。そういう意味では、この本はごく常識的なことを語っていると思う。それは、見方を変えれば、常識を越えるような「目から鱗が落ちる」というようなことは語っていないと言うことだ。そこのところに僕はまた二流性を見る。

常識的に多くの人に賛成してもらえることで、ちょっと日本人の自尊心をくすぐってくれるような心地よい言葉にあふれていれば、大衆的な人気は得やすいのではないかと思う。これは、一流の人間の斬新な視点が理解されるのに時間がかかるのと比べると、今すぐに理解されてポピュラーになるという点では、二流性の故にベストセラーになったと言えるのではないだろうか。一流の言説は、時代を超えているだけに、その時代の中で理解されるのが難しい。時代がようやく追いついたときに再評価されることになるだろう。



藤原さんは「武士道」というものの価値を再発見するように主張している。このこと自体に二流性はない。「武士道」に普遍的な価値があるのなら、それを再発見することは一流の証にもなるだろう。僕が二流性を感じるのは、「武士道」の価値を高めるために、他のものの価値を低めるという無理な論理展開をしているところだ。35ページから始まる第二章の「「論理」だけでは世界が破綻する」というのは、俗受けはしそうだがいかにも粗雑な論理展開ではないかと感じる。

これが、ある特定の「論理」を具体的に批判する言説なら僕はそうは思わなかっただろう。しかし論理一般に対して、このような論理展開をするのは、その意図が見え透いてしまう。展開しているのは、「論理」の持っている限界の部分だが、それは実は特定の「論理」の批判でなければならないはずなのに、その限界があるからということで「論理」全体を否定的に語るという間違いを犯しているように見える。あるいは、意図的にそのようなことを語っているのなら、これは詭弁になると思う。

よく「科学には限界がある」という言説を見かけることがある。これは当然のことであって、どんなものにも、現実の存在であれば限界があるのが当たり前だ。だから、その限界を批判するなら、具体的な現実の限界について語らなければならないだろう。しかし、科学をこのように批判する人は、科学の一部の限界を指摘して、科学全体を否定的に扱う傾向を感じる。だから宗教が必要だとか、道徳が必要だとか言う方向へ議論を持っていきたいのだなと感じることがしばしばだ。藤原さんの論理展開には、それと同じようなものを感じる。

藤原さんは、論理に対していくつかの文句をつけているのだが、それは本来は論理の責任ではないように僕は思う。的はずれの責任追及ではないだろうか。例えば、アメリカ人の英語がひどいという話を藤原さんはしている。これは、英語を教える時間にタイプを教えたり、株式投資を教えたりと、「役に立つ」という基準で教えるものを優先させていることに間違いがあると藤原さんは指摘している。この指摘は正しいと思う。

目の前にあるものにすぐ役に立つものよりも、教育というのは基礎を作る方が大事だから、もっと英語の使い方に力を入れるべきだという藤原さんの主張は正当だ。それは、教育というものに対する基本的な考え方を、長いスパンで見ると言うことを大事にしろという主張だ。これには僕も賛成だ。しかし、これは基本的な考え方に対する正当な批判であって、これが「論理」そのものの限界を指摘するものだとは僕は思わない。むしろ、論理的に考えるからこそ、このような正当な批判が出来るのだと思う。

事実として間違った現象がそこにあるということは、その間違いの原因がどこかにある。それは、僕は「判断」の間違いだと思う。上の教育の問題で言えば、タイプや株式投資は、すぐに役に立つことがらで、これを教育することがアメリカ人として生きるには役に立つだろう、という判断が間違えていると思う。論理としては、「役に立つ」という基準で正当に推論しているのではないかと思う。

正当に推論して間違った結論が出たから、論理は限界があって、それはだめなのだと結論出来るだろうか。僕は、推論が正当でも、その推論の出発点になる判断を間違えれば、間違った結論が出るのは、何ら論理の限界ではなく、論理の正当性を表すものだと思う。論理というのは、正しい前提からは必ず正しい結論を導いてくれるが、前提が間違っているときは、結論の正しさは保証されない。結論の正しさは、その論理展開とは別の方法で証明しなければならなくなる。

正当な論理を使えば、判断の間違いを教えてくれる。ここには、何ら論理を非難するところはない。藤原さんは、このあと日本の教育についても具体的な批判を展開している。この具体的な議論については、僕も95%は賛成だ。ほぼ常識の範囲内で、おかしな所はないと思う。しかし、これは「論理」そのものの批判ではないのだ。あくまでも具体的な現実のおかしさに対する批判だ。

事実をもって論理を批判するというのは、論理としては間違いだと思うが、論理に慣れていない人はどこが間違いかなかなか了解するのは難しいだろう。論理が証明する正しさは何かと言うことが分からなければならないと思う。例えば、教育の問題として、その教育によってこれだけの成果が出るだろうという予想が、現実にはその通りにならなかったとしたら、その予想が間違っていると言うことになる。

このとき、その教育を実際にやろうと思ったのは、予想が正しいと論理的に考えたからだろうと思う。予想というのは、まだ実現されていない事実なので、これが正しいかどうかは論理によって考えるしかない。これが間違えていたと言うことは、論理が悪いのだろうか。

もし論理が悪いと批判するのであれば、論理の構造そのものの中に、間違える必然性があるという指摘がなければならない。それは、事実とは無関係に、事実性を捨象して証明されなければならない。なぜなら、論理そのものは事実に寄りかかったものではないからだ。「任意」の対象の事実に対して成立するのが論理なのである。

事実をもって論理を否定しようとするのは、論理を否定したいという願望から来る無理だと思う。実際には論理は否定出来ない。限界を指摘することは出来ても、その限界は、何ら論理全体の否定にはならない限界だ。また、限界があるからといって、それを埋めるものが何であるかは慎重に検討しなければならない。宗教的な信仰がそれを埋めるかどうかは分からない。藤原さんは、論理の欠点を補うものは「武士道」だと信じているようだが、それが正しいかどうかは論理を否定しただけでは決まらないのだ。

藤原さんは、「論理だけでは破綻する第二の理由は、人間にとって最も重要なことの多くが、論理的に説明出来ないと言うことです」と語り、その例としてゲーデルの不完全性定理について語っている。

数学においては、完全な公理系であれば、正しい命題はすべてその公理系の中で証明出来て欲しいという願いがある。しかし、数学は原理的に不完全であって、完全な公理系というものは無いと言うことをゲーデルが証明した。つまり、「正しいか正しくないかを論理的に判定出来ない命題が存在する」というわけだ。

これはもう少し正確に言わなければならないと思うが、ゲーデルの不完全というのは、無矛盾性と両立する完全性はないという意味で捉えなければならない。数学のような形式論理では、矛盾した命題からは任意の命題が論理的に正当に導かれる。だから、矛盾を含んだ体系では、どんな命題であろうと証明出来てしまうので、証明出来るという意味では完全だ。しかし、そこでは証明出来ない命題がないので、証明したということが意味をなさない。数学の体系としては意味のない体系だと言うことになる。

数学的に意味のある体系は無矛盾でなければならないのだが、無矛盾な体系は証明不可能な命題を含むので不完全であるというのがゲーデルの定理だ。これは論理(形式論理という数学)にとっては一つの限界であろうが、僕はこれはそれほど困った限界だとは思わない。

もしある命題が、その公理系の中ではどうしても証明出来なければ、それを新たな公理として付け加えた体系を構築して、そこに矛盾が見いだせなければ、技術的には不完全を修正していくことが出来る。そのような可能性を持っていれば、この不完全性はそれほど困るものではないと思う。むしろ、このような不完全性があるということを自覚して理論を構築するようにすれば、新たな可能性の方向を見いだすことが出来るのではないだろうか。ゲーデルが不完全性を証明したからといって、数学がすべて崩れるとは思えないのだ。

数学者の中には、「こと数学に限れば、どんな命題でも正しいか誤りかのどちらか一つであり、どちらであるかいつかは判定出来る、と信じ切っていた」人がいると藤原さんは語っている。その数学者の信念は、ゲーデルの定理でぐらついてしまうだろうが、数学そのものが揺らいでいるのではないと思う。

むしろ、正しいか正しくないかを判定する必要もないほど末梢的なことであれば、それが存在したとしてもそれほど気にすることはないのではないかと思う。重要な命題でそのようなものが発見されたときは、公理系を見直すきっかけが得られたのだと受け止めればいいと思う。そのような発想で、ラッセルのパラドックスなどは、集合論の公理系の変革に貢献してきたのではないだろうか。

ラッセルのパラドックスは、証明出来ない正しい命題ではなく、矛盾という、存在してはいけない命題だった。これは、完全性を広げすぎてしまったので、無矛盾性の方が危なくなってきたというものだと思う。だからこそ、集合論としての完全性を捨てて、集合に何らかの限界を設ける方法で、完全性の方を捨てて無矛盾性の方を取るようにしたのだと思う。数学の発展としては、そのような方向で僕はかまわないのではないかと思う。

数学以外の対象でも、証明出来ない事実があったとしても、それは深刻すぎるとらえ方をしなくてもいいのではないかと思う。むしろ、証明出来ないから、論理ではないもの(非論理)で受け止めなければならないという思考はしたくない。

何らかの事実があったとき、それが証明出来ないとしても、それがあるということは正しいのだから、その正しさをとりあえず出発点にして論理的に理解するという方向で現実に対処していくのでかまわないのではないかと思う。そのこと自体が証明出来なくても、現実存在というのは、存在そのものが証明のようなものだから、そこから何らかの有効な結論が論理的に引き出せるものなら、それは十分役に立つのだと思う。論理そのものを否定する理由はどこにもない。
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by ksyuumei | 2006-03-26 10:24 | 雑文


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