定義の問題

Kawakitaさんの「内田樹氏のエントリー「不快という貨幣」関連の言説は「俗流若者論」か?」というエントリーに書かれている「労働」の定義について、それは論点先取の間違いではないかという批判があるようだ。Kawakitaさんは、「労働」を「生み出した価値に対して、得られる対価が低いこと」と定義している。

この定義には、定義そのものに、Kawakitaさんのもう一つの主張である「内田氏は「労働とは常にオーバーアチーブメントの非等価交換である」と明確に述べています」と言うことの内容が含まれているように見えるからだ。「労働」をこのように定義すれば、それからすぐに「労働とは常にオーバーアチーブメントの非等価交換である」と言うことが導かれる。これは定義そのものと論理的に同値になるからだ。

ある主張をしたいときに、その主張が含まれているような定義を出発点として論証をするなら、それはどのような主張でも証明出来ることになる。しかも、それは言葉の上で(形式論理的に)証明出来るので、現実を観察する必要がない。現実と無関係に、現実と関わりのある主張を証明しようとすれば、普通はそういう主張は空理・空論と呼ばれる。Kawakitaさんの定義は、本当に空理・空論として批判されるべきものなのかということを考えてみたい。



Kawakitaさんの定義が空理・空論になってしまうのは、この定義から「労働とは常にオーバーアチーブメントの非等価交換である」という結論を導き出そうとするときだ。Kawakitaさんは、果たしてそのような論理展開をしているだろうか。文脈をたどる限りでは、Kawakitaさんの論理展開はそのようになっていない。Kawakitaさんは、このことを定義とは無関係に

「働いて生み出した価値よりも賃金(対価)は必ず低いこと」
「結果的に賃金(対価)よりも多く働いてしまっていること」

と言う二つの事実から導こうとしている。この二つの事実が確認出来れば、「労働とは常にオーバーアチーブメントの非等価交換である」という主張が証明出来る。ここでは、この事実(真理)が現実的なものであるので、それをどう受け止めるかということにやや論理的な甘さは感じるものの、基本的な流れは間違っていないと思う。

現実的な事実(真理)には、常に誤差と例外が伴う。だから、「必ず」という言葉や「常に」という言葉があったときに、その現実的に妥当な解釈というものに気をつけておかなければならない。これを数学のように形式論理的な、無限の対象のすべてにわたる性質の主張(全称命題)だと考えると、そんなものは現実には確かめようもないから、前提が間違っているという批判が出てくるだろう。

この場合には、例外がどう例外として妥当かと言うことを最初に確かめておいた方がいいだろう。例えば、つぶれてしまうような儲からない会社では、労働者の賃金の方が生み出した価値よりも高いように見えるので、その差額で損が生まれつぶれるように見える。これは上の一方の主張とは矛盾するので、これからすぐに一方の主張が否定されるように感じてしまう。形式論理的考察ではそうだろう。しかし、弁証法的にこれを捉えれば、それは視点の違いで、この場合は例外であるという判断が出来る。

この場合は、賃金が高すぎると判断することも出来る。高すぎると言うことは、何らかの基準があって、それと比べると高すぎるという判断だ。それではその基準とは何か。それは市場価格という、市場というメカニズムで決められる基準だと考えるのだ。本来は市場価格として一定の所に落ち着くような賃金が、市場価格ではなく、一人の人間が生きていくのに必要な額というようなもので算定されると、高すぎる賃金が生まれる場合がある。

また、儲けとして予想されている生産された価値の算定を間違えて、それから高すぎる賃金が算出されてしまったということも考えられる。つまり、この場合は、賃金の算定を間違えているという例外であって、賃金の算定さえ間違えなければ、一般的に「働いて生み出した価値よりも賃金(対価)は必ず低いこと」と言えるのだ、と例外の場合を処理しておけば、現実にこの主張を否定するような事実があるように見えても、主張そのものを否定しなくて済む。

実際には、理論を展開するときに、出発点としては事実ではなくて抽象的な対象を設定した方が、演繹としてはミスが少ないだろう。だから、賃金というものを、現実の具体的な労働者の給料として捉えるのではなく、市場価格として決まってくる「労働力」という商品の価格が賃金であるとした方がいいだろうと思う。そうすれば、この賃金という対象は、形式論理的な演繹にも馴染むような対象になる。

もし、市場価格として決まってくる賃金に対して、「労働」がそれ以上の価値を生まないとしたらどうなるだろうか。資本家は、賃金を払うことによってどんどん損をすることになる。賃金の対価として資本家が受け取るものが、払うものよりも少ないからだ。そうすると賃金として払われる財貨はどんどん減っていき、市場価格はどんどん下がることになる。それでも、「労働」が賃金以上の価値を生まなければ、それはやがて0に収束して資本主義は終わると言うことになるだろう。

「労働」が「賃金」に対してオーバーアチーブメントであるというのは、資本主義存続のための本質である、という結論が演繹的に導かれる。ただし、この結論は、賃金というものが市場価格によって決まるものを言うという前提がある。その前提が現実には、さまざまな誤差や例外によって、必ずしも市場価格とイコールにならなければ、結果的にはこのことも例外的に成り立たなくなる。だからこそ「本質」という言葉を添えなければならないのだ。

「労働とは常にオーバーアチーブメントの非等価交換である」という結論は、Kawakitaさんの定義とは独立に、他の論理展開から主張出来る事柄になる。ただし、これは「本質」を語った抽象的なものであり、ベタに現実の事実を語ったものではないと言うことを理解しなければならないが。

このことが確認出来たら、今度はこれを新たな定義として、抽象的な理論展開を演繹によって行うと言うことが出来る。それがKawakitaさんの定義なのだと僕は思う。これは、数学の場合で言えば、無理数の定義によく似ているような状況ではないかと思う。

有理数というのは、比が存在する数字として、分数で表されるという定義がされる。そして、無理数はこれを否定して「有理数ではない」という定義が最初はされる。しかし、ある対象が、こういうものであるという定義は演繹によく馴染むが、こういうものではない、と言う定義はなかなか演繹するのは難しい。そこで、分数というものの性質を考えると、それは有限小数になるか循環小数になるかどちらかであるというような結論を、無理数の定義とは無関係に導く。

そのような結論からは、無理数というのは、そういうものではないので「循環しない無限小数になる」という性質が導かれる。これは、本来は証明された定理として扱わなければならないのだが、演繹の出発点として、定義のように扱うことが出来る。

Kawakitaさんの論理展開は、内田さんが語っていることはマトモに論理的に理解することが出来ると言うことだ。その理解のために、

「贈与・・・生み出した価値に対して、見返りを求めないので、得られる対価は0。
 等価交換・・・生み出した価値に対して、等価の対価を得ること。
 労働・・・生み出した価値に対して、得られる対価が低いこと。 」

と言う定義をして、この三者の違いを演繹的に導いてみようと言う論理展開をしている。これは、比較のための定義であって、その目的があるからこそ、対比の主題となる「対価」というものが定義に入ってくるのである。

これら三者の言葉の定義は、他の方法でいくらでも行うことが出来る。視点が違えば違う定義が出来る。しかし、ここでは「対価」という視点で、あえて同じ方向から見る定義を行っているのだ。それはこれらの比較をしたいという目的があるからなのである。

これが恣意的な定義にならないのは、それぞれの定義が、他の正当な定義と論理的に同値になっているからである。「労働」に関しても、それが価値を生み出すという素朴な定義と、Kawakitaさんの定義は矛盾するものではない。もっと正確に表現すれば、資本主義下における、市場価格としての賃金と比べての「対価」に関してどうかという主張になるだろう。資本主義下と市場価格としての賃金という前提がなくなるような文脈では、このような定義はふさわしくないかも知れない。

このような比較のための前提から、演繹的に

「内田氏は「労働=贈与」とはみなしておりません。内田氏は「労働とは常にオーバーアチーブメントの非等価交換である」と述べています。
労働は労働力を提供してその対価を得る「等価交換」であると建前上は認識されておりますがそれは虚構です。労働は実は「非等価交換」です。その結果、滅私奉公的・贈与的な「オーバーアチーブメント」が発生しています。 」

と言うようなKawakitaさんの結論が導かれてくる。特に「虚構」に関する部分は、僕が三浦つとむさんから学んだマルクス主義では、すでに確立されている主張でもある。「賃金」と等価交換されるのは「労働力」という商品の方で、これは実体的には「労働能力」とでも呼べるようなものである。実際の行為としての「労働」は、決して商品にはならないのだ。

もし商品であるなら、それは資本主義においては交換価値を持っていなければならない。それを使用する前に、それを欲する動機を与えるような何ものか、「手に入れたいという動機を起こさせる価値」がなければならない。しかし「労働」という行為は、実際に労働をしてみないとその「価値」(これは使用価値と呼んだ方がいいものだろうか、ちょっと難しい)が分からないものだ。「労働行為」の前に「労働」の価値を判断することが出来ない。判断出来るのは、どのくらいの労働が出来るだろうかという可能性の方であって「労働力」の価値だけだ。

そして、その「労働力」の価値の判断が正しければ、労働の結果としてのオーバーアチーブメントを手に入れることが出来、判断が正しくなければ、高すぎる賃金を払って損をすることになるのだろう。

Kawakitaさんは、自分の主張の正しさを考えるために、比較という観点から定義し直している。その定義の正当性は、主張の証明のために論点先取をしていないかどうか、定義の間に論理矛盾が生じないか、他の正当な定義と比べて、その正当性を犯すような定義になっていないか、と言うようなことが確認されれば、定義としては論理的な問題はないのではないかと思う。

その表現に論理的な不明瞭さは感じるものの、論理的な問題というものは僕は感じなかった。むしろ、内田さんを誤読する人たちは、「本質規定」と「規範」の概念を間違えているのではないかという指摘が、論理的には的を射た批判だなと感じた。

内田さんを誤読して批判している人たちは、「本質」という言葉を抜いて批判している人ばかりだ。「本質」を議論している人は見かけたことがない。「本質」と言うことを理解していないのではないかと思われる。「本質」というのは、論理的反省から導かれる論理的な帰結なのである。現実観察の結果得られる帰納的な結論ではない。現実観察の結果得られるのは「現象」であって「本質」ではないのである。

三浦さんが語っていたことだが、ヘーゲルは「現象」に「本質」が現れると見ていたらしい。「本質」は「現象」に貫かれているが、「現象」をベタに受け取るだけでは「本質」は見えてこない。その「現象」を一段高い視点から眺めることで、その存在において、その特性がなくてはならないものとして論理的に反省されるなら、それが「本質」になるのである。

Kawakitaさんの定義を検討していて、今度は「贈与」というものの本質が気になってきた。内田さんを誤読する人たちは、実は「贈与」の本質も勘違いしているのではないかと思えるようになった。「贈与」の本質を今度は考えてみたいものだ。
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by ksyuumei | 2006-03-25 10:48 | 論理


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