二週間前に、マル激トークオンデマンドでは、神保哲生氏の小学校時代の同級生という『拒否出来ない日本』(文春新書)の著者の関岡英之さんをゲストに招いて議論をしていた。その議論の中で「二流問題」というものが提出された。
例えば竹中大臣は、学者が政治家として登場したと言うことで話題になったが、学者としてはアカデミズムの世界では二流という評価だったそうだ。だが、学者としては二流であっても、経済政策を担当する政治家になり、強大な権力を持つことになれば、その影響というものは計り知れないものになる。 本来ならば、一流の学者の方が正しい判断が出来、現実的にも影響力を持つべきだと考えられる。しかし、学問的な正しさと権力の大きさが比例しないため、必ずしも現実的な政策などでは正しい判断が選ばれない。むしろ、ある種の利権に奉仕するような判断が、学問的な装いを持って提出されて、それに詳しくない大衆は、権力の権威とマスコミの宣伝によって、その二流の判断が正しいと錯覚してしまう。 これがマル激で語られていた二流問題というものの姿ではないかと感じた。正しい判断がなぜ理解されないのか。また、一部の利権に奉仕するような判断が、なぜ大きな権力を握っていくのか。大衆はなぜそれにだまされてしまうのか。これらの疑問に対して考えることが二流問題を考えることになるのではないかと思う。 このヒントになるような文章が、宮台氏の「アンチ・リベラル的バックラッシュ現象の背景【追加】」という文章の中にあった。ここでは、バックラッシュ(揺り戻し・反動)と呼ばれる現象の中に、二流の学者が台頭して権力を握り、一流の学者を駆逐するという面を見ている。この現象の中に、二流問題で提出されている疑問の答が見えてくるような気がする。 このバックラッシュ現象の特徴を宮台氏の文章から拾ってみよう。 1)「権威主義者には弱者が多い。」 2)「排外的愛国主義にコミットするのは、日本に限らず、低所得ないし低学歴層に偏ります。」(「要は『諸君』『正論』な言説の享受者は、リベラルな論壇誌のそれより、低所得か低学歴だということです。」) 3)「丸山の戦後啓蒙がなにゆえ今日この程度の影響力に甘んじるのか」は「丸山がインテリの頂点だったために、亜インテリ(竹内氏は疑似インテリと表記しますが)の妬みを買ったから、となります。」(教育社会学者の竹内洋氏の著書『丸山眞男の時代』(中公新書)による) 4)「丸山眞男によれば、亜インテリこそが諸悪の根源です。日本的近代の齟齬は、すべて亜インテリに起因すると言うのです。」(「亜インテリとは、論壇誌を読んだり政治談義に耽ったりするのを好む割には、高学歴ではなく低学歴、ないしアカデミック・ハイラーキーの低層に位置する者、ということになります。この者たちは、東大法学部教授を頂点とするアカデミック・ハイラーキーの中で、絶えず「煮え湯を飲まされる」存在です。」) 5)「文化資本を独占する知的階層の頂点は、どこの国でもリベラルです。」 「だからこそ、ウダツの上がらぬ知的階層の底辺は、横にズレて政治権力や経済権力と手を結ぼうとするというわけです。」 6)「これが、大正・昭和のモダニズムを凋落させた、国士館大学教授・蓑田胸喜的なルサンチマンだというのが丸山の分析です。竹内氏は露骨に言いませんが、読めば分かるように同じ図式を丸山自身に適用する。即ち、丸山の影響力を台無しにさせたのは、『諸君』『正論』や「新しい歴史教科書をつくる会」に集うような三流学者どものルサンチマンだと言うのです。アカデミズムで三流以下の扱いの藤岡信勝とか八木秀次などです。」 7)「要は、文化資本から見放された田吾作たちが、代替的な地位獲得を目指して政治権力者や経済権力者と結託し、リベラル・バッシングによってアカデミック・ハイアラーキーの頂点を叩くという図式です。」 権威主義者に弱者が多いというのは次のように推論出来る。弱者というのは、自分のよって立つ基盤を自分自身に持てないから弱者だと言える。だから、その基盤を自分の外にある権威に頼るだろうという推測が出来る。自分の中に、自尊心の基盤を持てれば強者になるだろう。そして、そのような強者なら、権威に頼らずに自らの判断を信じて行動することが出来る。結果的に、権威に頼る人間は弱者が多くなるだろう。 2)では、その弱者を具体的に「低所得ないし低学歴層」と書いている。これは、「私の在職する大学で博士号を取得した田辺俊介君の博士論文『ナショナル・アイデンティティの概念構造の国際比較』(2005)が、ISSP(国際社会調査プログラム)の1995年データを統計解析しています」と言うことから結論されている。つまり、これは推論の結果ではなく、統計データという事実から導かれた結論と言うことになる。 権威主義者が何故に「権威主義」と呼ばれるかといえば、本当の学者の実力を正しく評価して、その実力に「権威」を感じているのではなく、表向きの形式、つまり肩書きだとか権力だとかに「権威」を感じて、それ故に正しいと錯覚するので「権威主義」と呼ばれる。そうすると、このような「権威主義者」が、本物の一流の学者に対しては支持をするどころか、むしろルサンチマンを感じて恨みを抱くということも考えられる。これは推論の結果そう考えられる。 丸山真男によれば、このような権威主義的二流学者は「亜インテリ」と呼んでいる。このような存在が、一流の学者に対して抱く恨みは、一流の学者は、本物の権威によってニセモノの権威である彼らのよりどころを否定するような存在になるからだろうと思う。また、宮台氏が指摘するように、本物の学問的な実績を上げることが出来ないために、「横にズレて政治権力や経済権力と手を結ぼうとする」のだろう。そして彼らが権力を握ることに成功することによって、彼らの方が現実的な力を得ることにつながるのだろうと思う。 社会には、経済にしろ政治にしろ大きな利害の違いが存在する。その利害は、学問的に正しいことが実現されるという方向に行くとは限らない。企業が公害を撒き散らせば、学問的には企業の責任を問う方向で考えることが正しいだろう。しかし、利害関係という観点から言えば、企業に責任がないことを証明する学問の方が企業の側にとってはありがたいだろう。 学問は常に利害が絡んだ権力に利用される可能性がある。イデオロギー性を持っていると言っていいだろうか。しかし、一流の学者であれば、イデオロギーに奉仕するのではなく、学問としての正しさをあくまでも追求するだろう。一流からはずれる、同じことをしていたらうだつが上がらない二流の学者は、権力におもねることによって権力のおこぼれに預かり、実質的に権力の一部を獲得するという方向に行く。これは、推論としてこのような方向に行くことの蓋然性がかなりあるものと考えられる。 二流問題において、一流ではなく、むしろ二流の学者こそが権力の中枢に位置してしまうと言うことは、権力というものが偏った利害を代表していることに原因しているのではないかと思う。利害が偏っているので、学問的に正しい答を出されたのでは、かえって自分の利権を否定するようなことになってしまう。だから、たとえ間違っていようとも自分の利権を守ってくれるような、二流の学者の判断こそが大事にされるというわけだ。 これは、統治権力の側にとって都合のいい判断を出してくれる学者として、例えば環境破壊に対する批判があったときに、環境に対する政府の判断を強化する立場を見せたりする人がいたり、精神鑑定において、裁判所にとって都合のいい鑑定を出してくれる精神医学者がいたりすることを見ると、具体的にこれらの推論のあらわれを見ることが出来て、推論の正しさを感じるものだ。 二流の学者の方が大きな権力を握って影響力を拡大するというのは、本来は大衆にとっては不利益になるはずだ。それは権力にとって都合がいいのであって、大衆にとって都合がいい状態ではない。両方にとって都合がいいのであれば、何も二流の学者を使ってごまかす必要はないのだから。しかし、実際には、この二流の学者の影響力を排除する方向で大衆的な動きが起こることはない。実際には不利益であるのに、大衆はなぜそのように感じないのだろうか。 宮台氏は、 「例えば、「第三の道」的な自立支援が一般的になった今日、自立努力や参加意欲を示さないまま行政的に支援されるように見える人々に対し、2ちゃんねるなどの場で「テメエが弱者かよ」と噴き上がるケースが目立ちます。そういう大衆的な心性が、「第三の道」を通り越して、ネオリベ的な再配分否定図式を翼賛しています。噴き上がる連中には弱者が多いですから、自分の首を絞めていることになります。実に皮肉な事態です。」 と語っていて、不利益を被る弱者が、かえって弱者を叩き、利権のために権力を擁護する二流の学者を支持する方向に行く皮肉を指摘している。二流の学者が権力にすり寄ったとしても、大衆が正しく判断して、自分たちの不利益になることに反対すれば、民主主義国家であればそれなりに、権力の自由勝手にさせるということはなくなるだろう。しかし、今の日本の状況を見ていると、郵政民営化の問題にしても、ほとんどが二流の学者の言説だけがマスコミに載って、一流の学者の言葉はほとんど大衆に知られずに、二流の判断が何の疑問も提出されずにどんどん通っているという感じがする。 二流の学者が権力の中枢に行ってしまうという問題は、大衆の側が一流と二流の区別がつけられないということにも原因があるような気がする。これは、マスコミの宣伝だけが原因だろうか。確かに大量宣伝のためにだまされると言うことはあるだろうが、たとえ宣伝がたくさんあっても、生活感覚に大きく反するような言説なら、疑問を持つ人が増えていく可能性があるだろうと思う。大量宣伝に加えて、生活感覚では、その間違いが発見出来ないような巧妙な仕掛けがあるようにも見える。 郵政民営化法案の時は、それがいかにも構造改革をして、今まで欠点としてあげられていた部分が克服されてバラ色の未来が訪れるような錯覚がばらまかれていた。しかし、実際のこの法案は、アメリカが、日本の国家財産の一つである郵便貯金と簡易保険を合法的にむしり取ることに荷担するような法律だったと、今ではそのように理解する人が増えてきている。この法案が議論されていたときに、このような理解をする人が多ければ、選挙での結果も変わったものになっていただろう。 人々が二流の学者の言うことの方をむしろ信じてしまうのは、対象の難しさというものがあるような感じがする。難しい対象を理解するには、一流の学者がよく考えた過程をたどることが出来なければならないのだが、それはとても難しくて、むしろ二流の学者の短絡的思考の方が理解しやすいので、そちらの方へ流れやすいと言うことがあるのではないかと思う。 これは、究極的には暗記学習に偏った日本の教育に問題があるように僕は感じているが、難しいことをよく考えるという習慣が、どうも日本人にはないのではないかと思う。そのために、一流の学者と二流の学者も区別出来ず、単純で気持ちのいい結果を語る二流の学者の方へ支持が向いていってしまうのではないだろうか。 一流の学者と二流の学者をどこで区別するか。その問題を次は考えてみたいと思う。
by ksyuumei
| 2006-03-19 20:37
| 社会
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