科学と哲学

僕は若い頃は哲学青年だった。元々は数学をやっていたので、数学のように確かな真理を、あらゆる対象に渡って獲得したいという気持ちがあったのだろうと思うが、あらゆる対象を考え抜く哲学というものに心惹かれるようになった。



僕は、数学においては、誰かに教えられて獲得した知識を持ったという記憶がない。こう言うとかなり傲慢に聞こえるかもしれないが、学校で教えられたことをそのまま鵜呑みにしたことがないというニュアンスとして聞いてもらえばいいだろうか。教えられたことを自分の言葉で言い換えて、自分の頭で納得しないと覚えられなかったと言うこともある。

だいたいが、僕は数学では法則やアルゴリズムを記憶したことがない。それは作り出すものであって、忘れたらまた発見すればいいと思っていた。だから、僕は記憶するような勉強はすべて嫌いだった。記憶せずとも、論理的にたどっていけば真理が得られるという数学だけが学ぶに値するものだと思っていたのが若い頃の僕だ。

そのような数学のイメージがあったので、専門にしたときも最大の関心を抱いたのは数理論理学であり、数学の真理性を証明する数学基礎論の分野だった。数学の中でも、かなり哲学に近い分野に関心を持っていたことになる。

僕にとっては、数学以外の物事はすべてあやふやな真理の上に組み立てられているようにしか見えなかった。確実な真理はいかにして得られるかというのが、僕の哲学への関心のすべてだったと思う。そして、それを満足させてくれる哲学には出会えなかった。

今なら、これは僕が求めたことがそもそも現実にはあり得ない知識だと言うことが分かってきた。数学というのは、非常に特殊な対象を考察する学問で、それは抽象的対象を、自ら設定し、それ以外の対象が存在しない世界の中でのみ通用する真理(論理的な真理)を導く学問であると理解している。確実な真理であることが最初から保証されている世界で考えるのであるから、真理の確実性が問題になるのである。

ところが、ひとたび現実の対象を相手にした学問になると、常に予想外の対象に出くわすことになる。そうなれば、あらかじめ決めておいた真理などは全く役に立たなくなる。数学とそれ以外の学問では、そもそもの対象のとらえ方が違うのであるから、数学的な真理をそれ以外の世界に求めても無駄なのであると言うことが分かった。

哲学における真理というのも、数学的な真理ではなく、妥当性というものにかかわる真理であると今では思うようになった。だから、哲学においては、もっとも価値が高いものは真理そのものではなく、妥当性を判断するときの様々な視点の持ち方や、その考え方を学ぶことではないかと今では思っている。

哲学は非常に広い範囲に渡って様々の考察を立てる。対象によっては、その対象にあわせたものの考え方をしなければ判断を間違える。それこそが学ぶに値するものだと思った。それは、一度考えてみないと正しい対処の仕方が分からないものだからだ。特に観念という想像上の対象を考えるときは、現実に存在する物質的なものと同じようなとらえ方をすると失敗する。

すべての対象を数学的対象のように特殊なものとして捉えたら、割り切ることの出来ないものを割り切ってしまって間違って判断するだろう。しかし、数学的な見方という狭い視野の中にとどまっていると、数学の世界では正しいことが、なぜ間違っているかが理解できなくなる。挙げ句の果てには、理論が正しいのだから、これは現実が間違っているという逆立ちしたとらえ方もしたくなってきてしまう。

僕が数学の世界だけで暮らしていて、哲学の世界を知らなかったら、このような間違いを脱することができなかったのではないかと思う。哲学によって、もっと広い世界を知ることが出来たから、間違いというものに敏感になれたのではないかと思う。今は哲学というものがあまり人気がないようだ。しかし、視野の広い見方を学ぶには、哲学が一番その遺産が詰まっているのではないかと、僕は思うんだけれどな。
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by ksyuumei | 2004-05-26 23:17 | 哲学一般


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