「賃金」と交換されるのは「労働」なのか

Kawakitaさんの「内田樹氏のエントリー「不快という貨幣」関連の言説は「俗流若者論」か?」というエントリーに引用されているコメントの中に次のような表現がある。


「そもそもの定義からして、「贈与」は見返り(対価)を求めない行為であり、だからこそ、それは市場における「売買」や「取り引き」、「等価交換」に明確に対立します。一方、近代社会における「労働」は、労働者が自らの行為を「賃金」と交換し、あるいはその生産物である「商品」を市場において「売買」する行為です。ですから、「労働は贈与である」という言明は、「丸は四角い」という言明と同様に、端的に背理なのです。」


この中の「丸は四角い」という表現に関連して批判をしたのが前のエントリーだったが、今回は「近代社会における「労働」は、労働者が自らの行為を「賃金」と交換し」という主張を批判的に検討しようと思う。この主張から、表題のような疑問が生まれるのだが、それを先に解答しておけば、

 <「賃金」と交換されるのは「労働」ではない。「労働力」の方である>




というのが、僕が三浦つとむさんから学んだ答だ。もし「賃金」と等価交換されるものが「労働」だとしたら、「贈与」として考えられている「賃金」以上の働きは、すべて等価交換に反する不当なものとして許されないものとされてしまうだろう。しかし、賃金以上の剰余価値が全くなく、働いた分すべてが賃金になってしまうなら、資本家はどうして労働者を雇う気になるだろうか。「賃金」と「労働」が等価交換されると考えるのは、資本主義の否定をもたらすような発想だ。だから、これはどこか論理的におかしいに違いないと思う。

この論理をたどるには、まず「等価交換」というものの正体をよく見なければならない。そして、それを見るためには交換される「価値」というものがどういうものであるかというのを正確に知らなければならないと思う。

「等価交換」というのは資本主義の原則である。もしある商品を、その価値以上で売りたいと思う人がたくさんいたら資本主義は破綻してしまう。また、商品を常にそれが持っている正当な価値以下で買う人がたくさんいてもやはり資本主義は破綻する。資本主義が資本主義として健全な発展をするためには、「等価交換」という原則が守られなければならない。

しかし、現実にはある商品が価値以上に高くなることがある。オイルショックの時のトイレットペーパーの値段などがそうだっただろう。バブル期の土地の値段もそうだと思う。これは、実際の価格が、資本主義的な原則の他に、需要と供給の法則にも従うと言うことがあるからだろう。供給不足の時には、一次的に「等価交換」が崩れることがあるのだ。しかし、供給が過剰にも不足にもならず必要十分であれば、資本主義は原則的に「等価交換」の法則に従う。

マルクスは資本主義社会における商品の交換を分析して、資本論の中で次のような等式を考えている。

  1クォーターの小麦=aツェントネルの鉄

この等式は、両者が商品として同じ価格を持っていることを示している。小麦と鉄とでは、物質としては同じではない。この同じではないものがなぜ等式で結ばれるかと言えば、そこに内在するものに「等しい」関係にあるものが見つかるからである。板倉さんの言葉を使えば、等式というのは「違うものが等しい」という矛盾を理解することが大切なのである。

さて、価格というものが等しいというこの等式で語られている「価格」というものはいったいどういうものであるか。これは、実は「商品価値」「交換価値」と呼ばれる、商品に内在する「価値」が数値として現れたものとしてマルクスは考えている。と僕は、三浦つとむさんを通じて学んだ。

この価値の実体が分かれば、それが等価であるように交換されるのが資本主義の原則であるということの意味も分かってくる。それでは、どのような判断からそれが等しいと言うことが導かれてくるのだろうか。それは、価値を「使用価値」と「交換価値」に分けて、商品としての等価に関わる部分は「交換価値」の方であるということを理解するところから導かれてくる。

「使用価値」の方は、その商品が自分にとってどれだけ役に立つか、大事かということに関わる価値である。それは個別性を持った価値で一般性を持たない。社会的に落ち着く価格を持たない。それがどうしても欲しい人間は、金に糸目をつけないのである。ゴッホの絵画がどうしても欲しい人間は、それが商品価値としてどのくらいかということを考えずに、手に入れられるのならいくらでも出すというふうになるだろう。

商品として流通しているものの価値は、このような個別性に左右されることはない。それは一般的に、他と同等な商品と同じ価値を持たなければ社会的存在とは言えない。そこで、マルクスは、商品としての価値は「交換価値」にあり、これは社会的なある量を目安にして決定されると考えた。

マルクスは、商品の価値(交換価値)は、そこに注ぎ込まれた労働の量によって測られるとした。しかし、それは個人的な労働であっては社会的な基準にならない。社会的な基準となるには、それが社会的な平均を示していなければならない。ある商品の生産にかかる労働時間が、平均してどのくらいになるかで、その価値が決まると考えたのだ。

そうすると「1クォーターの小麦=aツェントネルの鉄」という等式からは、1クォーターの小麦を生産する労働時間に対して、aツェントネルの鉄を生産する労働時間が、社会的平均としては等しいと考えるわけだ。このように考えると、技術革新によって、この社会的平均労働時間が短くなれば、商品に注ぎ込まれた価値の大きさは小さくなり、それに従って価格が下がると言うことが起こる。技術の発達によってものが安くなると言う現象をうまく説明することが出来る。

資本主義社会では、「労働力」という商品にも「賃金」という価格がつけられる。資本主義以前の社会では、「労働力」も社会的に変動する価格を持った商品ではなく、雇い主との間の取引で決まるような個別的なものだったのではないかと思う。それが資本主義社会では商品の一つになった。これも商品である以上は、社会的に決定される平均された労働時間の大きさによって決まってくることになるだろう。

商品の価値は、そこに注ぎ込まれた労働時間の量によって決まってくる。それでは、「労働力」という商品の生産に注ぎ込まれた社会的平均労働時間はどのようなものになるだろうか。それは一つは教育というものになるだろう。多く教育された労働者は、それだけ多い労働時間を注ぎ込まれた商品だと考えることが出来る。学歴によって賃金の格差があるというのは、資本主義社会ではある意味合理的な結果になっている。

また、社会的な豊かさに違いのある地域では、大人になるまでに「労働力」を作り上げるためにかかる費用が違ってくるだろう。そうすると、同じ内容の仕事をしても、「労働力」の値段が違ってきてしまう。単純労働が貧しい地域の人々にゆだねられ、低い賃金のもとで行われ、そこから脱却出来ないという問題も、資本主義の商品の価値から言えば避けられない法則性を持っていると言える。

「賃金」で買われる商品は、労働者の中に注ぎ込まれた他の人の労働(それは教育であったり、生存のために食わせてくれた親の労働であったりする)が蓄積した「労働力」の方である。「労働」と呼ばれる行為は、その「労働力」が現実に何らかの対象に注ぎ込まれたときに生じるもので、商品としては存在していない。売買される対象ではないのだ。

「労働力」という商品も、現実の価格は需要と供給の関係に左右されることになる。人手が足りないという供給不足の商品は、等価以上の高い値段で買われることになるだろうし、人があまっている供給過剰の商品は、等価以下で買いたたかれることになるだろう。原則としては等価交換でも、現実の条件によってはその原則が崩れることはいくらでもある。

これが「労働力」ではない普通の商品であれば、供給過剰の時は、それは市場からだんだんと姿を消して、需要と一致するような必要十分な量に落ち着いて等価交換がされるようになる、というのが自由主義経済の法則だろうと思う。この法則が、「労働力」という商品の場合には、非常に困った側面を持っている。

それが供給過剰の時に、自由主義経済の原則に従って、市場から姿を消せばそれでいいと言うことにはならないだろうと思うからだ。市場から姿を消すと言うことは、労働者から生きていくすべを奪うと言うことになってしまうからだ。あまった労働者は死んでもかまわないと言うような社会は、人間の社会としての倫理に反する。

しかも、この「労働力」という商品は、常に供給過剰になるようにコントロールすることも出来る。資本主義社会では、「労働力」は常に買いたたかれ、しかもあまった「労働力」が捨てられる運命にある。これこそが資本主義の根本矛盾というものだろう。これは資本家にとっては利益となるだけに克服が難しい矛盾だ。

「賃金」と交換されるのが「労働」であると考えると、資本主義社会ではそれが等価交換されなければならないから、労働によって生み出された価値はすべて労働者に返せということになってしまう。これは、共産主義以上に過激で極端な主張になる。共産主義でさえも、労働によって生まれた価値が一部は国家のものになるという側面を持っていたように思う。労働者に価値をすべて与えろと言うのは、資本主義では現実的におかしいことは明らかだ。

資本主義の原則である「等価交換」を元に考えると、このようにおかしな結論が出てくるというのは、その前提としている、「賃金」と「労働」とが交換されると言うことが論理的におかしいのだと思う。実際には、資本主義社会では、「賃金」と「労働力」とが等価交換されることが正しいのであって、「労働力」に見合った「賃金」をよこせと主張するのが正しいだろう。

なお、「労働」によって「労働力」の価値以上の余剰分を作り出すのは、資本主義の長所であると僕は思う。その余剰分が、投資となってさらに発展の契機となり、資本主義はそれ以前の時代とは比べものにならないくらいの富を生み出すことに成功したのだと思う。余剰分の投資がない社会では、発展ということは考えられないだろう。問題は、その余剰分が不当に独占されていないかと言うことだと思う。

将来の発展のための投資として、その余剰分を「贈与」するのであれば、それは非常に人間的な行為でもあると思う。親が子供に対して、見返りを考えずに「贈与」するのは、そういう投資の自然な現れでもあるだろう。内田さんが考える「贈与」をそのように受け取れば、これこそが、資本主義発展の健全な「労働」の本質なのだと言うことも理解出来るのではないだろうか。
[PR]
by ksyuumei | 2006-03-16 10:27 | 雑文


<< 論理トレーニング 10  議論の構造 論理トレーニング9 逆接の論理... >>