論理トレーニング9 逆接の論理  練習問題2(続き)

問5 「」内から適切な語を選び、その接続構造を図示せよ。
(1)イソップの寓話の犬は、池に映った自分をもう一頭の犬と思い込む。
(2)肉のかたまりを加えたもう一頭の犬。
(3)これは自然な錯覚であるが、
  (a)「しかし/ただし」
(4)この鏡が「深さを持つ鏡」であったところに、この寓話の成り立つ条件があった。
  すなわち、
(5)鏡像に向かって吠え立てたとき、獲物は鏡の底に失われてしまう。
(6)このまことに現実的な損失は犬にとって不可解なものであったに違いない。
(7)なにやら腑に落ちぬままに、
  (b)「しかし/ただし」
(8)たしかな喪失感を口中に噛みしめながら、すごすご彼は池から立ち去っていく。
(9)イソップ寓話のこの犬は現実的な生活者に過ぎない。
(10)彼には錯覚はあっても幻想はない。
  これに比べると
(11)仏典に語られている猿などは遙かに徹底していて、
  むしろ
   幻想の域に達している。
  というのも、
(12)そこでは500頭もの猿たちが水に映る月影を求めて、次々と水中に落ちていくからである。





まずはそれぞれの主張を短くまとめてみよう。

(1)寓話の犬の思考
(2)思考の対象になっている犬
(3)「自然な錯覚」という判断
(4)寓話の成り立つ条件の考察
(5)犬の行動について
(6)犬が「不可解」だと考えたという判断
(7)「不可解」と言うことの説明・言い換え
(8)犬の喪失感の描写
(9)この犬が「現実的な生活者」だという判断
(10)「錯覚」はあるが「幻想」はないという判断
(11)仏典の猿には「幻想」がある
(12)「幻想」の具体的説明

さて、これらの論理的構造を考えていこう。それぞれの主張はどのような関係になっているのか。それ以前の主張を引き継いで同じ主張を展開しているのか、それとも違う主張を対立させて転換しているのか。順接なのか逆接なのかということを考える。

問題になっている接続詞「しかし」と「ただし」は共に逆接の接続詞であるが、「しかし」の方は主題がまったく変わってしまう転換になり、「ただし」は、主題は変わらないが、その主題の元での制限を加えるという論理構造になっている。この接続詞を挿入する前後の文章の関係がどうなっているかを考える。

(3)では「自然な錯覚」という判断がされている。ここで、この判断がまったく転換されるとするなら、「自然」あるいは「錯覚」と言うことが否定されて反対のものが主張されなければならない。それで(4)を見てみると、ここでは「自然」であることと「錯覚」であることにはまったく言及されていない。つまり、その2点に関しては承認しながらも、論点としては他の所に注目していると言うことを語っている。これは、議論を制限して話題を絞っていると考えられる。従って解答は、

  (3)-制(4):接続詞=ただし

となる。これには解答があって、解答によれば、制限を受けるのは((4)~(8))になっている。この判断には少々難しさも感じる。たしかに「すなわち」でつなげられている((5)~(8))は、(4)の解説として、同じことを語ったものとして構造を考えることが出来る。ここまでが、制限を受ける前提の元での主張と考えることが出来るだろう。しかし、文章が接続詞から離れていくと、その接続詞の制限の及び方がだんだんと薄れてくるので、これをすぐに判断するのはなかなか難しさを感じる。よく考えてみればそうだが、すぐにそれにピンと来るにはもう少し訓練を重ねなければならないだろう。

(7)と(8)の関係は、そこでは正反対のことが語られていると受け取ることが出来る。(7)では、「腑に落ちない」という「不可解さ」の「分からなさ」が語られている。それに対して(8)では、「たしかな喪失感」が語られている。この正反対の主張に対しては、「しかし」がふさわしいだろうと思う。接続の論理構造としては転換を選びたいところだが、解答ではこれが対比になっている。

これは、転換でもあり対比でもあるのだが、全体の構造を考えると対比と受け取っておいた方が論理的な理解が正確に出来ると言うことだろうか。ここでもう一度転換と対比の定義を振り返ってみると、対比というのは、何らかの共通点があって、その共通点がある二つの対象に対立する属性を見てそれを対比するという構造になっているようだ。

上の(7)と(8)で言えば、犬の認識ということでは共通して捉えられる対象に対して、一方では「不可解」という分からないと言う属性があり、もう一方では「たしか」というハッキリと分かるという属性を見つけることが出来る。この二つはたしかに対比して考えることが出来る。

これに対して、転換として語られるときは、二つの対象ではなく、同一の対象が持っている二つの属性が対立しているときに、転換して語られる論理構造になっているようだ。一人の人間が表では非常に立派な紳士として振る舞っているが、「しかし」裏では誰も知らない悪魔のような面を体現しているというようなときは、同一の人間の正反対の属性と言うことで転換の「しかし」と解釈した方がいいだろう。

だが、これはかなり相対的な解釈の仕方だと思う。同一の人間という文脈で解釈しているものを、その属性を二つに分裂させて、それぞれ属性を対象にした文脈を考えれば、それは二つの対象を対比させていると解釈出来ないこともない。どちらの文脈がより主題として大きな位置を占めるかで、転換か対比かという判断が違ってくるのかも知れない。

この問題の文章は短い抜粋なので、その文脈を判断するのが難しい感じもするが、主題としているのは犬の認識の総体ではなく、イソップの寓話に現れる犬の認識の中の「錯覚」の部分と、後半で語られている猿の認識の「幻想」との対比ではないかと思われる。

このような文脈の中で、犬の「不可解」と「たしか」で語られている認識を考えると、これは、それを同一の犬の認識として対立的に取り上げていると受け取るよりも、対比的に受け取ることが「錯覚」という判断にもつながってくるのだと考えられる。「錯覚」というのは、その間違いが自分では分からないから「錯覚」と言われる。不可解さがないと錯覚にはならないのだ。また、それが錯覚であると分かるには間違っていると言うことだけは分からないとならない。間違った原因は分からないけれど、間違ったという結果は分かるというのが「錯覚」と言うことだろう。

これは「不可解」と「たしか」を直接論じるのではないから、論理構造としては転換よりも対比の方がふさわしいという判断なのではないかと思う。この対比をすることによって「錯覚」という判断が出来るから、対比という受け取り方の方が論理としては正しいのではないかと言うことだと思う。従って、解答は

  (7)-比(8):接続詞=しかし

になる。対比図は、

             -なぜ肉がなくなったかは分からない
   主題:犬の認識 -|
             -肉がなくなったという結果はたしかに分かる

というふうに、「分からない」と「分かる」という対立がここで対比されていると考えられるだろう。

この文章は短い抜粋なので、全体としての主張がどこにあるかというのは判断しにくい。あえて言えば、「錯覚」と「幻想」の違いを語ったものだとも言えるだろうか。これはなかなか面白いテーマだとは思うが、違いがあるからどうだという展開がないとその面白さがなかなか出てこない。

僕が関心を持っている「誤読」と言うことと関連させて考えると、言葉の意味を狭く受け取って、辞書的な意味や、自分の思い込みで言葉の意味を受け取ったりする誤読が「錯覚」に当たるものになるだろうか。これは、対象がたしかに存在するから間違えやすいと言う意味での「錯覚」に当たるだろう。

これに対し、「幻想」というのは、対象は本当は存在しないのに、空想的に作り出すところに成立するような感じがする。相手が語ってもいないことを、相手が語っていると思い込んで誤読するのは「幻想」に当たるだろう。これは、月の実体が少しも分かっていない(その大きさがどれくらいかも分からない)のに、それが水の中にあると思い込む、ありもしないものを作り上げる空想が「幻想」と呼ばれるのにふさわしいのと同じではないかと思う。

池に失った肉はたしかに存在していたものだ。だから、これが水に映った姿は、空想的に作り出した幻想ではなく、それが同じように実体として存在するとした認識が、勘違いの「錯覚」だったということになると思う。「錯覚」はよく考えれば、その原因をつかむことも出来るようになるだろう。現実に対象が存在しているからだ。しかし、幻想の方はなかなか当事者には分からないかも知れない。その幻想は、さらなる幻想で埋め合わせて間違いを無視することが出来るからだ。

水に映った月が手に取れないのは、それが特殊な物質なのだと「幻想」することが出来る。肉がたしかになくなったのは、それまでにあったということが「幻想」なのだとは思えない。なくなったということは確かなことなのである。確かなことが一つでもあれば、それから確かな判断を導くことが出来る。しかし、「幻想」は「幻想」を生み出すので、どこかでその「幻想」をやめない限り、間違いに気づくことがないのではないかと思う。

ある人がそのようなことを語ったと「幻想」していると、その人は、そういうことを語るような人なのだという「幻想」が必ず生まれてくる。こういうのを、おそらく観念論的妄想と呼ぶのだろうと思う。「幻想」を断ち切るテクニックとして唯物論というものがあると考えてもいいのではないかと思う。「幻想」と「錯覚」というのは、なかなか面白いテーマだなと思う。
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by ksyuumei | 2006-03-15 09:58 | 論理


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