「丸い四角」は存在するか

内田樹さんの「不快という貨幣」という文章のトラックバックをたどっていたら、「働かない者は人間ではない(?)――内田樹「不快という貨幣」」という文章を見つけた。その中に、「誘惑」」というエントリーの次のようなコメント欄の引用があった。


「この問題ですが、まず用語を整理するべきだと思うんですね。全く違う内容が語られていても、一見同じ言葉が用いられているので議論が混乱する、ということがしばしばあるわけですから。
まず、前にも言いましたが、内田氏の致命的な間違いは、「労働は贈与である」、などと言っている点です。そもそもの定義からして、「贈与」は見返り(対価)を求めない行為であり、だからこそ、それは市場における「売買」や「取り引き」、「等価交換」に明確に対立します。一方、近代社会における「労働」は、労働者が自らの行為を「賃金」と交換し、あるいはその生産物である「商品」を市場において「売買」する行為です。ですから、「労働は贈与である」という言明は、「丸は四角い」という言明と同様に、端的に背理なのです。
もちろん、現実には労働者はつねに資本家によって「搾取」されているのであり、労働と賃金の「等価性」はいわば幻想的なものに過ぎません。しかし、これと「贈与」における<等価交換の不在>は根本的に異なります(例えば、詐欺にあって「金を騙し取られる」ことと「自発的な寄付」がまったく異なるように)。」





これは、内田樹さんの「2005年05月07日 サラリーマンの研究」というエントリーを巡ってのやりとりから生まれたものになっている。ここでは、内田さんの主張を「労働は贈与である」という言葉でまとめて、それを「丸は四角い」という言葉とのアナロジー(類似)を語っている。

内田さんのエントリーを読むと、内田さん自身は「労働は贈与である」という言い方は一度もしていないので、そういう言葉でまとめること自体に一つの疑問を感じるのだけれど、このアナロジーにも論理的な疑問を感じる。このアナロジーは、単に辞書的な意味として対立したものを結びつけていると言うことにしかすぎないのであって、「背理」というような論理的側面を語ることの出来るアナロジーだとは思えないからだ。

このコメントは非常に面白いと思った対象であるにもかかわらず、誰にトラックバックを送ったらいいか分からないので困った。僕が関心があるのは、このコメントのアナロジーであり、その他の主張に対しては何も言及するつもりがないからだ。誰かのエントリーに対するまとまった意見ならトラックバックを送る価値もあると思うが、独り言のような考察なので、トラックバックを送られた方も違和感があるだろうと思い、単なる一考察として発表させてもらうことにしようと思う。

さて、このコメントの内容には、二つの点で論理的な批判を感じる。一つは、内田さんが直接表現していない「労働は贈与である」という言明に対してだ。内田さんが直接表現していないもので、しかもそれに近いものを見ると、どうも間違って解釈しているように思えるまとめ方なので、自分で作り上げた間違った解釈に対して批判をしているのではないかとも思えるからだ。この表現に近いものを内田さんの文章から探してみると、次のようなものが見つかった。


「自分は「他者からの贈与」に依拠して生きているが、自分が「他者への贈与」の主体になること(それが「労働」ということの本質である)を拒否する。」
「2005年05月19日と2005年05月18日の間 資本主義の黄昏」


ここでは、「労働の本質」として、「自分が<他者への贈与>の主体となること」を指摘している。単純に「労働」と「贈与」をイコールで結びつけているのではない。内田さんが語っているのは、「労働」というものにはいろいろな側面があるだろうが、その本質を表す構造として取り上げられるものに、「<他者への贈与>の主体」となるということが取り上げられているのだ。単に実体的に、「労働」という言葉の対象として指されるものと「贈与」という言葉の対象として指さされるものとが同じだという平面的な見方をしているのではない。

「サラリーマンの研究」では、内田さんの表現は、「オレが〈あいつら〉を食わせている」というものになっている。これは、まさに「資本主義の黄昏」で語られていた「他者への贈与」が「食わせている」という表現になって、「主体」が「オレが」という言葉になっているといえるだろう。これはオレ(自分)と<あいつら>(他者)を構造的に捉えているのであって、一般的な「労働」と「贈与」という名詞的な実体を対象として目の前に見ているのではない。構造を捉えて理解することこそが本質であり、内田さんの文脈に沿った理解になるのだ。

「労働は贈与である」と平面的な表現にしてしまうと、内田さんの真意を間違って受け取るだろうと思う。そうすれば、その批判も内田さんの表現を批判したものではなく、間違って受け取った表現を批判したものになる。これは、意図的ではないかも知れないが、意図的にこういうことが出来ると、どんな相手でも批判することが出来る。論理的に批判出来る形に受け取ることさえ出来ればいいわけだから。その受け取り方は、どう解釈しようと読者の自由だということになれば、まさに批判は思いのままと言うことになる。

実際には、論理的に受け取らなければならない文章は、論理的に受け取ることに失敗すれば、それは的はずれの批判という反批判を受けることになるだろう。内田さんの主張を批判するなら、「労働」の本質を語る文脈で、そこに「贈与」としての性格が入り込んでいないかどうかを問題にしなければならないだろう。「労働」一般が「贈与」一般とイコールだというような文脈で読んでしまえば、そこには矛盾した面があるじゃないかとしか思えないだろう。

上の内田さんへの批判は、内田さんの文章を論理的に正しく解釈していないという点で僕は間違っていると思っているが、もう一つアナロジーとして語られている部分も、論理的な構造に違いがあるにもかかわらず、アナロジーとして語っているところは間違っていると思っている。「丸は四角だ」という言い方と、「労働は贈与である」という言い方は、どのように論理構造が違っているのだろうか。

それは抽象的な観念的対象を語ったものと、現実存在の現実的関係を語ったものの違いという論理構造の違いがあると僕は思う。「丸」と「四角」は抽象的な存在であり、それは定義においてそれぞれを排除する存在になっている。「丸」であればそれは「四角」ではないのである。両方を集合として考えれば、それは共通部分がない排他的な集合であると考えられる。だから、「丸い四角」というのは、抽象的な観念的な世界では絶対に存在しない。「丸は四角だ」というのは、概念を考察するだけで背理だと言うことが分かる。論理的な対象なのだ。

それに対し、「労働」と「贈与」は抽象的・観念的な対象ではない。もし、辞書的な定義に従うものだけをこの言葉の対象として認めるとするなら、これらも抽象的・観念的な対象になり、概念を考察するだけで背理だという判断をすることも出来る。しかし、それは、言葉の定義として最初から「労働」と「贈与」の集合に共通部分を作らないようにしているから背理になるのであって、「労働は贈与である」と言うことの背理性を証明したのでも何でもない。形式論理的に言えば、

  Aである かつ Aでない  と言うことはあり得ない

という矛盾律を語っているだけのことになる。背理になるような組み合わせを作れば、背理になるということは証明するまでもなく、形式論理の矛盾律という法則として表されるだけだ。

実際には「労働」と「贈与」が現実の対象であれば、それは現実の状況によって背理にもなるし、背理にならないこともあるのである。この二つの言葉をどう定義するかによってそれは決まってくる。また、それが背理になったとしても、現実にそれが存在しないという証明にはならない。それは、弁証法的な矛盾であると考えれば、たとえ背理であっても存在する矛盾として捉えられる。

日本の会社で行われているサービス残業のようなものは、賃金の対象としての労働という定義を与えれば、いくら働いても賃金がもらえないのだから、それは定義に反する「背理」である。しかし、サービス残業はいくらでも存在している。背理だと言うことでその不当性を訴えることが出来るが、訴えたからと言ってそれが消滅するかどうかは、社会の状況による。現実の持つ弁証法性はそのようにして矛盾の存在を含んだ論理を考えることを要請する。

対象が現実世界でないときは、形式論理が成り立つ世界として設定して、背理という矛盾をすべて排除することが出来る。そこで成り立つ「丸は四角だ」という背理と、現実世界で存在しうる矛盾の「労働は贈与である」という矛盾は、同じ背理であっても構造が違うのである。これを一緒くたにアナロジーとして語るのは、論理構造の把握を間違えたものとして考えられるだろう。

「労働」をする主体の意志に反して、それが「贈与」としてかすめ取られているとしたら、その意志の自由に反する面についての不当性を主張するのは間違いではないと思う。しかし、それが不当だからと言って、形式論理として間違っているかどうかは分からない。形式論理では捉えられない対象であるという可能性もある。

「労働」をする主体が、それを「贈与」として意識して認めているのなら、それこそが「労働」の本質に関わることだというのが内田さんの主張だろうと思う。そして、僕はそのような「労働」こそが、本当の意味で人間に喜びをもたらす「労働」になるだろうと思っている。常に等価交換という対価を求める「労働」は、資本主義社会に特有の特殊な「労働」ではないかとも思う。このような「労働」が発達していけば、それはかなり苦痛を伴う「労働」に変化していくのではないかと思う。

内田さんの真意は、「労働」に喜びを発見しないものを非難するのではなく、「労働」から「贈与」という人間的な喜びに関わる面を奪いさってしまったものに対する批判をしなければならないということなのではないだろうか。「労働」に喜びを取り戻すためにも、「贈与」という面を考えることが大切なのではないだろうか。それが「労働」の本質だという内田さんの指摘に、僕は深く共感するものだ。
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by ksyuumei | 2006-03-15 01:14 | 論理


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