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文章読解における文法的理解と論理的理解 2

内田樹さんの「不快という貨幣」という文章に書かれている、文法的理解は出来るが、論理的理解をしようとすると妄想としか思えないような表現を考えてみようと思う。その表現の中にある論理構造を分析して、妄想ではなく整合性のある主張として理解するように努めてみようと思う。その鍵は、その表現がどのような文脈で語られているかと言うことだ。

まずは、逆説的な一見非論理的に見える表現を拾ってこよう。


「骨の髄まで功利的発想がしみこんだ日本社会において、「働かない」という選択をして、そこからある種の達成感を得る」

「「働かないことを労働にカウントする」習慣が気づかないうちに社会的な合意を獲得した」

「働かないことが労働」


ここに引用した3つの表現は、これだけを単独で文法的に理解しようとすると、常識にまったく反する意味になってしまうので、論理的には非常識な妄想のように見える。働いて何かを成し遂げるからこそ「達成感」があるのに、何もしないことにどうして「達成感」を感じられるのか。単に詭弁を弄しているだけなのではないか。あるいは嘘をついているのではないか。



「労働」という言葉には「働く」という行為が入っているのに、その否定である「働かない」ことが「労働」になるという自己矛盾はどのようにして正当化されるのか。これが内田さんだけの屁理屈であれば、そういう言葉遊びもあるかなと思うが、「社会的な合意を獲得した」と言われると、そこに整合的な論理構造を見つけなければ、この主張を受け入れるわけにはいかない。

内田さんは「彼らが考えている「労働」はおそらく私たちの考えている「労働」とは別のものなのだ」と語っている。つまり、内田さんが上のように導き出した、非常識とも思えるような主張は、実は「労働」というものの定義が違うという文脈の元で理解しなければならないものなのだ。今までの「労働」概念で理解しようとすると、これらの主張は妄想にしか思えない。だから、辞書的な・常識的な意味での「労働」という文脈でこれらの主張を受け取っているとしたら、それは誤読と言うことになるのだろうと思う。

さて、ここで議論の前提としている内田さんの新たな「労働」の定義はどのようなものになるのだろうか。普通の意味での労働は、何か対象に働きかけて、自分の行為によってある種の価値を生み出すと言うことが「労働」になる。物を生産する「労働」は一番わかりやすい。材料に働きかけて、有用な物を作り出すことが価値を生み出すことになる。物を作り出さなくても、それを運ぶことに価値があるのなら、運送という行為も「労働」になる。いずれにしても、役に立つという価値が「労働」の基礎にある。

しかし、内田さんがここで語る「労働」は、このようなプラスの意味での価値を生み出すものとして捉えていない。むしろそれはマイナスの価値を持っているもので、「他人が存在することの不快に耐えること」が「労働」であると捉えている。これは、内田さんによれば、現代の家庭に生まれ落ちた若者たちが、最初に経験する「労働」になるということだ。

これは、今までの「労働」の概念から言えば「労働」とは呼べないシロモノだ。なぜこれを「労働」と呼ぶのだろうか。これが整合的に理解出来なければ、内田さんの議論は単に言葉をもてあそんでいるだけのようにしか感じないかも知れない。

内田さんは、父親の労働というものが「彼が夜ごと家に戻ってきたときに全身で表現する「疲労感」によって記号的に表象される」と語り、それが家庭における「労働」の表現になるという。これは、今までなら、「労働」という行為に付随する2次的な特徴に過ぎないものだったのではないだろうか。仕事にはたしかにつらい面があり、疲れるということが多い。しかし、それは「労働」の結果として現れるものであって、それが「労働」であったわけではない。

この「労働」のつらさや疲れは、「労働」が終わったあとに解消されて、家庭に持ち込まれないようになっていれば、家庭内での「労働」の現れが「父親の持っている不快感を撒き散らす」と言うことにはならなかっただろう。しかし、いつのころからか「労働」による疲れや不快感が、そのまま家庭に持ち帰られるようになったのではないだろうか。

内田さんの論理展開は、このような父親の「労働」からもたらされる不快感を耐えることがまた妻の「労働」になるということにつながってくる。内田さんの表現では、「現代日本の妻たちがが夫に対して示しうる最大のつとめは「夫の存在それ自体に現に耐えている」ことである」ということになる。

家庭内における「労働」がこのようなものだけに縮小されてきてしまったことが、「労働」の概念を変える要因になったとも内田さんは指摘している。かつては昔の概念のような「労働」らしい「労働」が家庭内にはあった。主婦の「労働」のようなものだ。しかし、現在ではそのような「労働」もほとんどなくなって、ただひたすら夫の撒き散らす不快感に耐えることが妻の「労働」の中心を占めてしまった、と内田さんは分析する。

これらのことが、家庭で育つ子供たちに深く影響して、子供たちの環境は次のように変わったと指摘する。


「子どもたちも事情は同じである。
彼らは何も生産できない。
生産したくても能力がない。
親たちの一方的な保護と扶養の対象であるしかない。
その「債務感」のせいで、私たちは子どものころに何とかして母親の家事労働を軽減しようとした。
洗濯のときにポンプで水を汲み、庭を掃除し、道路に打ち水をし、父の靴を磨き、食事の片づけを手伝った。
それは一方的に扶養されていることの「負い目」がそうさせたのである。
だが、いまの子どもたちには生産主体として家庭に貢献できるような仕事がそもそもない。
彼らに要求されるのは、「そんな暇があったら勉強しろ」とか「塾に行け」とか「ピアノの練習をしろ」という類のことだけである。
これらはすべて子どもに「苦痛」を要求している。」


子供たちの「労働」にも、そこには何か価値あるものを作り上げるというプラスの達成感を持ったものがなくなってしまっているのだ。むしろ、自分の要求に関係のない、一方的な押しつけに耐えるという「不快に耐える」ことが「労働」となっている。「労働」の結果でしかなかったある種の「苦痛」が「労働」そのものになり、もはや「苦痛」と「労働」が同じものになっているのだ。

このような文脈の元で「現代日本の家庭では「苦痛」が換金性の商品として流通しているのである」という主張を読まなければ、その意味を正しく受け止めることは出来ないだろう。「苦痛」というのはマイナスの価値を持っているが、その数値の大きさが、「労働」の価値の大きさに比例していると言うことが「換金性の商品」と言うことの理解になるだろうと思う。「苦痛」が大きければ大きいほど、マイナスの価値としての「労働」の価値が大きくなる。

内田さんは、「現代日本の「逃走する子どもたち」は実は彼らなりに一生懸命に働いているのである」とも語っているが、これは現代日本の子供たちがみな「苦痛」に耐えていると言い換えることが出来るだろう。しかも、「苦痛」に耐えていると言うことをちゃんと表現するようなら、それは「労働」をしていると外からも分かるような行為として受け止められるというのだ。「生活の全場面で経験することについて、『私はこれを不快に思う』と自己申告すること」が、「労働」をしているということの外から見える現象と言うことになる。


「労働することは神を信じることや言語を用いることや親族を形成することと同じで、自己決定できるようなことがらではない。
労働するのが人間なのだ。
だから、労働しない人間は存在しない。
はたから労働しない人間のように見えたとしても、主観的には労働しているはずなのである。」


ということを内田さんは語っているが、このことに関しては、内田さん自身の文脈の指定はない。ある意味では唐突に提出されている主張なので、その文脈は読者の側にゆだねられている。だから、上の主張が正しいと実感出来ない人は、これを整合的に理解する文脈を見つけられないだろうと思う。しかし、僕は、上のことと同じことを何度も考えたことがあるので、そのような人間だったらたぶん同じ文脈でこのような主張をするだろうということでこの主張を整合的だと理解出来る。

僕は、上のような主張を三浦つとむさんから学んだ。三浦さんの論理では、人間というのは他の動物と違って、自然に存在するものを単純に利用するだけでは生活をしていけない動物になっている。自然に存在するものに働きかけて、それを自分の役に立つものに変えるという生産活動をしなければ、生存そのものが出来ない動物なのだという理解をする。だからこそ、生産活動という「労働」が、人間の存在の根本にあるのだ。人間は「労働」をしたくて「労働」をしているのではない。生存していることが、「労働」を前提としているのだから、「労働」をせずにはいられない存在が人間なのだ。僕は、そういうふうに抽象的に、「労働するのが人間なのだ」という内田さんの主張を理解している。

このような文脈で内田さんの文章を読んで、始めて「働かないことが労働だ」と言うことを論理的に整合性があるものとして理解出来るだろうと思う。これは、ある意味では現代日本の病的な部分ではないかと思う。非常識な「労働」観が蔓延しているのだから、病的だと思う。

ここからは内田さんが語っていることではなく、僕の考えだが、日本というシステムは「疲れるシステムだ」と指摘したマル激でのコスタリカについて語った伊藤千尋氏 (朝日新聞記者)さんの指摘どおりに、「疲れるシステム」としての日本が「労働」を不快な疲れるものにしているのだと思う。日本が疲れるシステムにピリオドを打たない限り、「労働」が嫌なものであることをやめる日が来ないのではないか。「働かないことが労働」だというような非常識が終わる日が来ないのではないかと思う。

「疲れるシステム」としての日本というのは、それだけで一つのエントリーがかけるような気がするが、一言で言えば「ねばならない」と言うことを強制する日本という感じになるだろうか。そのような現状があるということも考え合わせると、やはり内田さんの指摘は正しいなと感じる。結果としての主張がどれほど非常識に見えようとも、ある文脈で受け取れば非常に論理的で納得がいくものだ。
by ksyuumei | 2006-03-14 09:57 | 論理


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