文章読解における文法的理解と論理的理解 1

論理トレーニングをしていて、論理的な文章の読み方というものを訓練していると、これがいわゆる国語的な文法的理解とは大きく違っているのを感じる。それは一言で言うと、「文脈」と言うことなのではないかと感じる。論理的理解というのは、文脈の中に一つの文章を置くことによって、その文章の理解(解釈)が狭まってくるのである。勝手な恣意的解釈を許さないのが論理的理解だ。

一方文法的理解というのは、その文章を単独で取り上げても、一応は意味づけが出来るという理解の仕方だ。しかし、その意味は、どのような前提(文脈)でその文章を読むかと言うことが、読み手の自由に任されているので、その意味(解釈)は一つに決まらず、いくらでも違う解釈が引き出せるというものでもある。



文法的理解は、解釈の可能性を考えるときに意識するもので、論理的理解というのは、その言語表現が実際に使われた特定の場面での特定の意味を理解するときに意識するものではないかと感じる。例えば、いわゆる「ウナギ文」と呼ばれる

  「僕はウナギ」

という文章を理解しようとすると、これは論理的にはまったくおかしなものになる場合がある。「は」という助詞は、「AはB」という表現において、

  A=B あるいは Aで代表される集合はBで代表される集合に含まれる

というような意味を表す。そうすると、この文章は、自分がウナギだと勘違いしている人間の妄想を語ったもののように、文法的には理解されてしまう。しかし、これをある特定の文脈の元に受け止めると、これが特定の意味を持ったものとして論理的に理解される。

例えば、食堂で何人かがどんぶりものを注文しているという文脈の元にこの言葉が使われたのであれば、

  「僕はウナギ(どんぶりを注文する)」

という( )の中を省略したものとして論理的には理解されるだろう。あるいは、こういう文脈で理解することも出来る。何でもいいが芝居の役割を決めるときに、ウナギの役を誰にするかということが話し合われていたという文脈では、

  「僕はウナギ(の役に立候補する)」

と理解すれば、これは妄想でも何でもない、普通の会話として論理的に理解される。文脈を考えずに、単独の表現として文法的な理解だけをしようとすると妄想としか思えない表現でも、文脈によっては論理的に理解出来る場合がある。

これを逆に考えると、誤解・誤読という現象が起こるのは、その文章を文脈上の表現として読みとるのではなく、単独で文法的に読みとっただけの一つの解釈を、表現者がそういう意味で語ったのだと受け取るところに起こるのではないかと思う。文脈を読みとるというのは、論理構造を把握すると言うことだから、その構造に難しさがある場合はそれを読み誤る。間違えた構造把握・すなわち間違った文脈による理解は、これが誤読というものになるのではないだろうか。

内田樹さんの「不快という貨幣」という文章も誤読されることの多い文章らしい。この文章のどの一部分が単独で抜き出されたときに誤読される可能性が高いのかを考えてみようかと思う。単独に文法的理解をされると、表現者の意図に反する理解のされ方をする恐れの多いものを探してみようかと思う。

それは、普通の辞書的意味と違う意味で使われている言葉に関わるものが、もっとも誤読の可能性の高い表現になるのではないだろうか。辞書的な意味と違うという文脈で表現されているものを、辞書的な意味で受け取るという文脈で解釈すれば、これは大きく理解が食い違うことになるだろう。まずは次の表現を考える

「学業を放棄することに達成感を抱き、学力の低下に自己有能感を覚える」

これは内田さん自身の表現と言うよりも、「苅谷剛彦さんが『階層化日本と教育危機』で指摘していたこと」と語られていることだが、これは辞書的意味の理解という文脈で考えると、論理的には滅茶苦茶な妄想を語っているようにも受け取れる。

何かを達成すると言うことは、それが完結しなければ「達成感」にはつながらないだろう。途中で「放棄する」ことにどうして達成感を抱けるのか。辞書的な意味の使い方の間違いではないかとしか思えない。また、学力の上昇に「有能感」を覚えるのなら分かるのだが、「低下」に「有能感」を覚えるというのも、辞書的意味という文脈では妄想のように見える。

この文章は、どのような文脈のもとでなら論理的整合性を持ちうるのか。内田さんは、次のような苅谷さんの文章を引用をして、その文脈の元でこの表現を理解しようとしているように感じる。


「比較的低い出身階層の日本の生徒たちは、学校での成功を否定し、将来よりも現在に向かうことで、自己の有能感を高め、自己を肯定する術を身につけている。低い階層の生徒たちは学校の業績主義的な価値から離脱することで、『自分自身にいい感じをもつ』ようになっているのである。」(有信堂、2001年、207頁)」


学力の上昇に努力し、学業を完結することによって達成感を得るのは、現在ではなく将来の成功における達成感になる。このような、将来的な達成の可能性がないと感じられる者たち、苅谷さんの言葉では「比較的低い出身階層の日本の生徒たち」と語られている者たちは、自分自身も・他人からも将来には夢がないと思われているのではないだろうか。

将来に達成感がないとき、将来を捨てて現在へ向かうのは論理的に納得出来ることだ。将来を捨てることが現在の学業を放棄することであり、放棄によって結果的に学力が低下することになれば、その学力の低下が、自分の決意の表れのように感じられるかも知れない。また、将来に達成感がないものなど、それを捨てたとしても何の問題もない、むしろ正しいことをしているという思いも生まれてくるのではないだろうか。

このような文脈の元に考えると、辞書的意味で受け取ると妄想にしか思えない事柄も、論理的に整合性を持ったものとして理解出来るようになる。このような意味で、上の文章を受け取ると、学業の放棄や学力の低下を非難するのではなく、そう結論せざるを得ないような社会構造の方に問題がないか考えるという論理展開にもなってくるのではないだろうか。


「グローバリゼーションと市場原理の瀰漫、あらゆる人間的行動を経済合理性で説明する風潮を考慮すると、「学ばないこと」が有能感をもたらすという事実は、「学ばないことは『よいこと』である」という確信が、無意識的であるにせよ、子どもたちのうちにひろく根づいていることを意味している。
「学ばない」というあり方を既存の知的価値観に対する異議申し立てと見れば、それを「対抗文化」的なふるまいとして解釈することはできない相談ではない。
彼らはそうやって学校教育からドロップアウトした後、今度は「働かない」ことにある種の達成感や有能感を感じる青年になる。」


という文章は内田さんの表現だが、ここで誤解を招きそうな表現は、

   「学ばないことは『よいこと』である」
   「「働かない」ことにある種の達成感や有能感を感じる青年になる」

という表現だろうか。これらを単独で取り上げれば、やはりある種の妄想を語ったものとしか思えない。内田さんが、これらを積極的に肯定しているのなら、内田さん自身が妄想を持っていると解釈しかねないし、これらの妄想を持っている若者を非難しているのだと受け取れば、年寄りの道徳的説教を内田さんがしていると受け取ってしまうだろう。

これらの表現は、どのような文脈で生まれてきたものなのか。それは「「学ばない」というあり方を既存の知的価値観に対する異議申し立てと見れば」という文章で語られている文脈で理解するという方向だろう。

学校教育の中で優等生になって、学校で教えられることを学ぶことに努力すると言うことは、「既存の知的価値観」を素朴に肯定することになる。そうすると優等生になれる可能性のないものにとっては、「既存の知的価値観」は自分自身を排除するものになってしまう。優等生というのは、誰もがなれるものではないから優等生なのだから、大部分は自分が排除されるような価値観を持たないと学ぶことに努力することが出来なくなる。

主体性を持った人間なら、自分を排除するような価値観に対しては異議申し立てをするのが普通ではないだろうか。その異議申し立てが「学ばないこと」だと理解すれば、上の文章は、妄想ではなく論理的に整合性がある主張として見えてくる。そして、「学ばない」ことが学校教育に対する価値観の否定として現れるなら、「働かない」ことは、労働に対する既存の価値会への異議申し立てとして達成感や有能感とも結びついてくるだろう。

ここで注意しなければならないのは、この主張は、内田さん本人が現実を整合的に受け止めようとして考えた主張ではないということだ。あくまでも、学びや労働から逃げ出そうとしている若者の立場に立ってみて、その立場から論理的整合性を持った考えをするとどう考えられるかを想像したものに過ぎない。だから、これを内田さん自身の主張だと受け止めるとまた誤読になるだろう。

内田さんの文章は、このあとまだ続くことになるのだが、文法的理解と論理的理解の齟齬をさらに考えてみたいと思う。内田さんの文章というのは、もしかしたら、文法的には理解しやすいものだから、かえって論理的な理解が難しくなっている可能性もある。文法的理解がしやすいから恣意的な解釈が生まれやすいと言うことがあるかも知れない。そのあたりのことも項を改めて考えてみようかと思う。
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by ksyuumei | 2006-03-13 10:54 | 論理


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