「任意性」についての考察 2  科学の場合

ここで考察する科学は、自然科学・社会科学両方を含むものとして考えている。両者の違いは、考察の対象に人間の意志が含まれるかどうかによっている。自然科学は、意志によっては変化しない、意志と独立の法則を持っている対象について考察する。社会科学の方は、人間の意志によって変化しうる社会というものが対象になってくる。意志の法則性は、100%解明されていないので、こちらの方が原理的には曖昧さを含むことになる。

人文科学という言い方もあるが、僕はこれは「科学」と呼べるのかに疑問を持っているので、これは考察の対象には含めない。例えば、文学と呼ばれるものは、三浦つとむさんによれば、夏目漱石がそれを「科学」にしようと思って苦労したものらしい。漱石は、文学が科学になるためには、科学としての対象をハッキリさせなければならないと考えて、文学という対象が何であるかを明確にしようとしたらしい。しかし、それには成功しなかったというのが三浦さんの判断だったようだ。



文学について、何を文学の対象とするか、論理的に分析出来る属性は何かと言うことが明らかになればそれは科学になるかも知れない。しかし、ロビン・ウィリアムス主演の映画「いまを生きる」で語られていたように、詩の中に含まれる言葉の量にある順位をつけて、その量の大きさで詩の優秀さを図るなどという論理は、一見科学のように見えるかも知れないが、誰も文学として賛成しないのではないかという気もする。文学は、意志の自由の中でも、かなり恣意性が強い「好み」の問題が入ってくるので、原理的に科学になり得ないのかも知れない。判断の基準を客観的に決められないからだ。

ソシュールは言語学を科学にしたといわれている。それは、ソシュールが、言語学の対象を客観的に判断出来るように明らかにしたからだろうと思う。ソシュールが対象にしたのは、個人的な言語活動ではなく、社会的な規範存在の方だったので、ある意味では社会科学として成立させたと言ってもいいのではないかと思う。三浦さんは、この対象は「言語学」としてはふさわしくないと批判していたが、それまでの言語学が、言語に対する解釈と評論だったものを、法則性を追求する科学の位置に置いたという点では、その通りなのではないかなと思う。

ある対象に対して、発見された事実を解釈し評論することにとどまるのなら、それはまだ科学にはなっていないと思う。科学になるためには、そこに普遍的に成立する法則が発見されなければならない。つまり、「任意性」が断言出来るものが科学になるのではないかと僕は考えている。

自然科学・社会科学に共通して、モデルを設定して抽象的な理論展開が出来るものは、その抽象モデルの範囲内では、「任意性」の問題は基本的に数学と同じだと考えられる。抽象的な対象に対しては、その対象がどんなものであるかは条件を設定してハッキリさせる。その条件を満たすものであれば、それは論理的に対象だと判断される。だから、その条件の下で論理的に導かれた結論に対しては、それは「任意」の対象について成り立つ法則になる。

現代の経済学は、ほとんど数学の一分野だなどと言われる。位相空間論に関する資料をインターネットで探したら、数学者ではなく経済学者が書いた論文を見つけた。それは数学を専門にしてきた僕でも難しさを感じるくらいハイレベルの数学の論文だった。映画「ビューティフル・マインド」に描かれた数学者のジョン・ナッシュは、たしか経済学でノーベル賞を取っていたのではないだろうか。

これは、経済学が基本的にモデル理論を使っているからだろうと思う。モデルの中にとどまる限りでは、それはまったく数学そのものになるのだと思う。もし科学がすべてモデル理論の範囲内にとどまるのであれば、「任意性」の問題は片づいてしまう。だが、自然科学・社会科学は共に現実への有効性を持っていると言うことから、抽象的なモデル世界だけではなく、それが現実とどのような関係を持っているかを考察しなければならない部分が出てくると思う。このときの「任意性」は、数学的なものではなく、現実的なものとなる。これをどのように受け止めたらいいのかで、科学を「真理」と捉えるか「仮説」と捉えるかの違いが生まれてきそうな感じがする。

仮説実験授業を提唱した板倉聖宣さんの「仮説実験の論理」というのは、仮説を持って現実に問いかけるというものを「実験」と呼ぶことを基本としている。単に観察するだけでは実験と呼ばないが、それがどうなるかという未来の予想を持って観察するときには、それが科学という真理をもたらす「実験」として受け止めることが出来ると考えるのだ。

例えば「振り子の等時性」というような法則が真理であるということを確かめたいときは、振り子がどんな振れ方をしても周期が変わらないと言う仮説を持って、振り子の運動を観察することが「実験」となる。そして、その仮説が常に確かめられたと確信出来るときは、「振り子の等時性」という法則は真理である、つまり科学になったと考える。

このとき、「どんな振れ方をしても」と言うところに「任意性」が顔を出す。これを哲学的に厳密に考えれば、現実の実験というのは、常に行われた有限回の思考に過ぎないのだから、あらゆる可能性を含んだ「任意性」に対しては成り立たない、と考えることが出来る。これは、「任意性」というものを数学的に考えるとこう結論せざるを得ない。「あらゆる可能性を含んだ」という「任意性」は数学のように抽象的な対象に対しての考察でしか成り立たない「任意性」だ。

「任意性」というものをこのようなものだと考える限りでは、科学という真理は成立しない。それは常に仮説にとどまるという判断になってしまうだろう。しかし、未来永劫にわたって裏切られる可能性のない仮説というものを仮説と呼んでしまうと、本来の仮説との区別がつかなくなってしまう。それはやはり仮説ではなく「科学」という真理だと考えた方がいいのではないか。

板倉さんは、この「任意性」に「未知なる事象を対象にする」と言うことを設定して「任意性」の妥当性を高めている。今までの経験によって法則が正しいことが確認されているものを、もう一度実験して正しい結果を確認してもそれは「実験」にならないというわけだ。まだ実験していない「未知」の対象に対しても、その法則が成り立つようなら、「未知」であるということが「任意性」を保証すると考えるのである。

既知の、結果を知っている事象なら、自分の法則に都合のいいものだけを拾ってきて試すことが出来る。これは、一見したところ「実験」のように見えるが、これは「実験」ではないと、板倉さんの概念ではそう考えるのだ。自分の法則が成立するかどうか分からない、「未知」なる対象に対して、その法則が成立するという仮説を持って事象を観察・操作するものを「実験」と呼んでいる。そして、未知の対象に対してもたしかに法則が成り立つことが確認されれば、他の未知の対象に対しても成り立つのだという論理的前提を立て、そこから「任意」の対象に対して普遍的に法則が成り立つと結論するのである。ここに、科学という真理が成立したというふうに考えるのである。

現実を対象にした科学における「任意性」は、「未知なるもの」という属性から導かれる「任意性」になるのではないかと思う。この「任意性」に対して証明された法則は、現実に対しても成り立つ、現実的な科学法則だと受け止めるのだと思う。

宮台真司氏は、「社会学入門 連載第十一回:制度とは何か?」の中で次のように書いている。


「「制度」とは「任意の第三者の予期」について私が予期を抱いている状態のことです。「人は皆そう思う」と私が思っているような状態ということです。」


ここに「任意の第三者」という言葉が出てくる。この「任意」というのは、当事者でない他の誰かのことで、言葉の意味としては誰でもいいという第三者だ。それでは、これは現実的にはすべての他人について確かめることで、この「任意」という言葉の意味を受け取るのだろうか。これは、すべての他人をいっぺんに把握する必要はなく、「未知」の誰かという第三者を設定すればそれで事足りるのだと思う。

「任意の第三者」というのは、人間の集合に属する誰かと言うことになるので、論理的には有限集合の要素であり、この「任意性」は、すべての要素について確かめることで保証すると言うことも出来る。無限集合ではないからだ。しかし、これは現実的ではない。あまりにも数が多すぎて、実際に確認は出来ないだろうと思うからだ。

このような膨大な数を対象にした社会学的な「任意性」は、可能無限と同じような発想で処理出来るのではないだろうか。可能無限の処理は、それをいっぺんに把握することはあきらめているが、新たな要素を構成的に作る方法を設定してきりがないと言うことから無限を表現していた。そして、新たに作り出した要素に対しても、法則が成り立つようなら数学的帰納法によって「任意」の対象に対しても法則が成り立つことが証明された。

現実において「未知なるもの」を対象にするというのは、ちょうど可能無限において新たな要素を構成的に作り出す方法と似ている。数が膨大すぎて、その全体を現実に把握することは出来なくても、「未知なるもの」という対象で「任意性」を代表させれば、それによって法則が全体でも成立すると判断してもよい、と考えるのが板倉さんの「仮説実験の論理」だと僕は思う。

この「任意性」は、数学的なものではないので、例外的な存在があり得るという可能性をはらんでいる。しかし、それが「例外的である」という判断が出来れば、法則性は保たれると考えるのが「仮説実験の論理」でもある。

エンゲルスが『反デューリング論』で語っていた有名な「ボイルの法則」についても、その法則に反する事実が見つかったとき、「ボイルの法則」そのものを否定するのではなく、その事実が例外的なもので、「ボイルの法則」が成立する条件を導き出すきっかけになったものと受け止める。

これは、「ボイルの法則」が成立する対象が膨大な数のものがあり、「任意性」を設定することに価値があると思われるからである。もし、例外的な事実があまりにもたくさん出てきて、むしろ法則が成立する「任意性」の方が狭まっていくようだったら、それは「任意性」としての価値が低くなり、法則としての価値が失われていくのではないかと思う。

三浦さんが引用した労働者哲学者のディーツゲンは、天動説も視覚的真理という点に限るなら真理と呼んでもいい、と語っていた。つまり、太陽が動いているというのも、視覚的な法則性としては法則と呼んでもいいだろうということだ。しかし、天動説を基礎にして打ち立てられた他の法則は、例外的な事象によって常に修正を余儀なくされた。それは最終的には、ただ単に「動いているように見える」と言うことしか残らない法則性になってしまったようにも感じる。これは、「任意性」を語るには、あまりにも対象が狭まってしまったのではないかと思う。科学としての資格を失うのだと思う。

未知なる対象に対して成り立つような法則が発見されれば、どんな対象を考察しても、そこに「科学」が生まれるだろう。板倉さんは、そのようにして歴史科学や教育科学を作ったのだと思う。
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by ksyuumei | 2006-03-10 09:47 | 論理


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