数学では、任意の対象を設定すると言うことをよくする。例えば偶数の2乗は偶数になる、ということを考えるとき、この偶数は「任意の偶数」として考えられている。何か特別な2とか4とかの偶数が、2乗してみたら4になったり16になったことを見て「偶数の2乗が偶数になった」と判断しているのではない。「どんな偶数」を取ってきても、2乗すれば必ず偶数になるという意味でこれを理解する。対象の偶数には「任意性」があるとしているのだ。
数学における「任意性」というのは、対象を集めた集合を考えたとき、その集合に属することが分かる対象であれば、どの対象を取ってきてもよいという「任意性」になる。これは、言語的な問題で言えば、言語によって条件付けしたものの全体を集合と考えれば、ある前提を設定することが集合を決定するなら、その前提の基での「任意性」というものを考えることが出来る。 「任意性」の前提になる集合が有限のものである場合、任意の対象に対して成立すると主張されている事柄は、実際に対象全部を調べてみればそれが正しいかどうかが分かる。「10以下の任意の偶数について」などといったときは、「2,4,6,8,10」という5つの偶数について調べれば、この前提の元での「任意性」は確認される。 しかし、任意性が問題になるのは無限集合の場合である。無限集合は、それに属する要素が無限にあるのですべてを確かめると言うことが出来ない。すべてを確かめることが出来ない無限集合において、「任意性」を確認すると言うことが果たして出来るのだろうか。 有限集合の場合に、すべての要素について確かめるのは帰納法と呼ばれる論理になる。数学では、自然数全体という無限集合に対して、論理的にはすべての場合を確認したことになると考えられる方法を「数学的帰納法」と呼んでいる。無限の対象に対して、どうしてすべてを確かめたと言えるかと言えば、それは「可能性」として確かめることが出来ると言うことを主張することによって、今は確かめていないけれど、確かめたいと思えば確かめられると言うことでそれを処理している。 数学的帰納法では、自然数の出発点である1という対象に対してそれが成り立つことをまず証明する。本当の帰納法であれば、この次に2を証明し、3を証明し、というふうに延々と続いていくのだが、これでは終わらないので証明が完結することはない。そこでnという対象を設定して、これが「任意」の自然数を現すと考える。そして、法則がnに対して成立すると仮定する。その時法則が、n+1の対象に対しても成立するのだと言うことを証明する。 こうすると、「任意」の自然数に対して、法則が成り立つことを証明したければ、その一つ前の数字で証明出来るかを調べればいいことが分かる。これをどんどん遡ると、いつかは1に行き着くことになる。そして、1に対してはすでに証明してあるので、そのことから「任意」の自然数に対しても法則が成り立つことが保証される。 ある自然数という具体的な対象に対して証明したいときは、それは有限回の手続きで終わらせることが出来る。それはどの自然数に対しても、そのような可能性を証明出来る。証明しようと思えば、有限回の手続きで終わるのでこれは帰納法ということになる。しかし、それを自然数全体という無限集合で成り立つと考えるところが「数学的」なのだなと思う。 この帰納法は、自然数全体という可算無限集合で成り立つものだ。これは、ある自然数があったときに、それよりも1大きい自然数を次に作ることが出来るという可能性によって定義された無限集合になる。つまり可能無限集合における「任意性」として捉えることが出来る。 可能無限の範囲での「任意性」は、論理的にはそれを確かめることが出来るので、論理的に承認することが出来るだろう。しかし、実無限に関しては難しい問題が生じてくるように感じる。実数の集合のように「連続性」を持っていると仮定されている集合は、実無限の観点で考えられている無限集合だ。これは、自然数のように、ある出発点を立てて、次の要素を構成的に作り出すことが出来ない。だから、論理的にはすべてについて一つずつ確かめるという帰納法は、このような無限集合には適用出来ないと考えられる。 野矢さんの表現を借りれば、「べったり」とした感じを持っているこの実無限の集合における「任意性」というのは、その全体をいっぺんに把握しておかなければ「任意性」を考えることが出来ない。どの実数であってもよいという「任意性」は、実際にどの実数であっても考えることが出来るという可能性は、その全体像が分からなければ何も言えないはずだ。 そうすると、一つ一つの実数の具体像は、構成的に把握することが出来ない実無限では、「任意性」は把握出来ないのだろうか。実無限を認めない立場、つまりそれが全体として存在するかどうかは、論理の範囲では決定出来ないとする立場では、この「任意性」は認めがたいのではないかと思う。 数学の立場は、この全体像が存在するということを決定出来るかどうかと言うことを問題にするのではなく、全体像があるという前提を立てて、その前提の元で成立する法則を求めると言うことになるのではないかと思う。もし、そのような全体像が存在しないのであれば、それは数学の対象ではないと判断するわけだ。数学は、あくまでも抽象世界の法則を求めるので、実無限である実数が全体として存在する世界での法則性を考えるというわけだ。 ただ、実数全体が存在すると考えても、ある対象がそれに属するか属さないかが決定出来なければ、それは数学としても成立しない。集合としての機能を果たさないからだ。自然数全体は、1を基点として構成的に作られるので問題はない。これと1対1対応がつけられる可算集合の場合は、自然数が構成的に作られると言うことから、同じように構成的に作り上げることが出来る。 だから、有理数という分数の集合までは、構成的に作られる無限集合と言うことで、可能無限の範囲で処理出来る。この可能無限によって新たに構成的に作る方法を考え出したのが、有理数の切断というもので実数を定義したデデキントだったのではないかと思う。 有理数が構成的に作られるものだから、それを用いて構成的に作れば、実数も可能無限ではないかという考えも浮かんでくるかも知れないが、切断においては、有理数の全体というものを、全体として把握する必要があるので、ここで可能無限という概念を越えてしまう。可能無限は、あくまでも有限を延長していく可能性として、切りがないと言うことから無限であるという認識が出てくる。切りがない向こうの果てをいっぺんに把握するというのは、可能無限の限界を超えてしまうのである。 切断というもので実数を定義すると、ある対象が実数であるかどうかは、論理的には、それが切断の条件を満たしているかどうかで判断出来る。数学的には、それで無限集合というものを設定して、考察の対象に出来ると考える。 実数全体の集合は、極限の論理であるイプシロン-デルタの論理において重要になってくる。任意の正の数イプシロンは、その任意性は、実数全体という集合が把握出来ると言うことから生まれてくるものだからだ。実数全体というものが把握出来なかったら、イプシロンの任意性は保証されない。 イプシロンの任意性は、「限りなく近づく」という運動の表現を、極限と点列の距離がイプシロンの大きさよりも小さいという静止表現に書き換える。運動というものは、その表現に矛盾を含むことは、ゼノンが提出したいくつかのパラドックスで知られていた。数学は本質的に形式論理と同等であるから、形式論理の世界では、対象を固定化した静止の表現しかできない。運動を運動のままで表現するのは、形式論理では出来ないのである。 運動の持つ属性を、対象を固定化した静止の表現である形式論理で表現する一つの方法が、「任意性」というものを使う表現なのだと僕は思う。しかし、この「任意性」の表現は、実数というものを持ち出してくると、実無限の存在を前提にした「任意性」にならざるを得ない。 運動の表現そのままでは、極限において、「xの微小増加△xは、0(ゼロ)であって0(ゼロ)でない」という、肯定と否定が同時に成り立つという、形式論理にあっては認めがたい矛盾を生み出す。これを避けるために実数の「任意性」というものを考えて、0(ゼロ)ではないが無視しうる小さい存在だと言うことで、極限を考えることが出来る。これで、運動の表現の矛盾を克服したと思ったら、別の実無限という難しさが生まれてしまったという感じだろうか。 ただ、この実無限も数学の世界だけにとどまっていれば、僕はそれほど問題ではないと思う。問題は、この数学をモデルにして、さまざまな自然科学がそれを利用し大きな成果を上げたことだ。実数は、数学において大事な対象だ。それなしには現代数学はあり得ないほどだ。そして、それを利用している諸科学は、実数という実無限の集合をモデルとして持っても問題がないかどうかということは、重要な問題になるのではないかと思う。 自然科学の諸法則を、それが真理を語ったものではなく、仮説に過ぎないと考える立場があるそうだ。これは、自然科学の法則における「任意性」をどう捉えるかに寄っているような気がする。この「任意性」は、言葉の意味から言えば、「どの対象に対しても」と言うことになる。この「どの対象」の範囲が有限であれば、「任意性」に問題はない。 問題が生じるのは、対象の範囲が無限に及ぶと考えられるときだ。その時の「任意性」の保証はどのように与えられるのか。僕は、可能無限の範囲であれば「任意性」は保証出来ると考えている。数学ではない、現実を対象にした諸科学における「任意性」の問題は、項を改めて考えてみたいと思う。
by ksyuumei
| 2006-03-09 10:23
| 論理
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