「疑惑」に関する雑感

浅井久仁臣さんの「私の視点 ブッシュ訪問の裏にあるもの」というエントリーに、次のような文章があった。


「印パ両国のブッシュ政権に対する貢献度を見れば、ブッシュ大統領にとってどちらの国を優遇すべきかは、今さら言及する必要もなかろう。911以降のムシャラフ政権の対米協力なくしてはアフガニスタンの“解放”はありえなかったからだ。イスラーム世界を敵に回してブッシュ政権に付くことは、半ば自殺行為である。それを敢えて行なったムシャラフ氏の目の前にどれだけすごいニンジンがぶら下げられたか想像に難くはない。」


ここで浅井さんが語っているのは、アメリカがパキスタンに与えたであろう利益があったという「疑惑」だ。この「疑惑」には、何も根拠が語られていない。それは当然のことで、根拠がハッキリしていれば、それは「疑惑」ではなく「事実」になるからだ。



それでは、この「疑惑」が生まれてきた根拠は何か。それは、論理によって生まれてきた「疑惑」だ。それは、前提として次のようなものが正しいという前提から導かれる論理だ。


 「イスラーム世界を敵に回してブッシュ政権に付くことは、半ば自殺行為である。」


つまり、何も見返りがなければ、パキスタンがアメリカの側につくということはあり得ないという論理的な帰結が導かれているのだ。この「自殺行為」に見合うだけの利益が必ずあるはずだ、ということから来る「疑惑」なのである。

この「疑惑」に対して、僕は、根拠がないではないかという批判はしない。むしろ、浅井さんの主張に納得し、それを支持する。何の見返りもないのに、それこそ世界平和のためにアメリカの側につくことが大事だ、というような判断から、パキスタンがアメリカの側についたのだなどとは決して考えない。

パワーゲームという闘争をしている権力が、そのようなナイーブな哲学青年のような原理で動くなどと言うことは、普通の大人はまったく信じないのだ。権力が利害関係で動くというのは、古今東西に通じる普遍的原理だ。

普通、というよりも自分の頭でものを考える大人は、権力というものがどれほど腐敗するものであるか、利害を守るために嘘をつくものであるかというのを知っている。だから、権力に対して、まず「疑惑」があるのが普通の状態だ。権力に対して、「疑惑」でさえも根拠が必要だと考えるのは、青臭い形式主義といえるだろう。

権力に対しては、「疑惑」がある状態が普通で、根拠があるときは、その「疑惑」が「事実」となるときだけなのである。
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by ksyuumei | 2006-03-07 10:49 | 論理


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