小泉さんの言葉は、非論理的ではあるけれどわかりやすいという評判だ。複雑な背景を持った事柄を、単純な言葉で断言してしまうところにわかりやすさがあるが、複雑な背景をすべて無視してしまうところに非論理性が表れてくる。
例えば靖国参拝問題にしても、すべてを心の問題にしてしまい、外交の問題や歴史の問題を、無視しうるものとして判断して正当化しようとする。質問が、心の問題以外の所に及んでも、それに対する見解を語ることはなく、あくまでも心の問題として処理しようとする。 これを心の問題として処理すれば、単純化されて、それにしか関心がない人にはまさに拍手喝采ということになる。しかし、この論理は、靖国参拝に関して心の問題以外は無視しうるという世界を設定して、その世界の中だけでしか通用しない論理となる。つまり、現実の世界を対象にしているのではなく、抽象的な、自分に都合のいい世界を設定して、その世界の中では正しいではないかと主張する詭弁なのだ。 複雑な現実を対象にして考察しなければならない事柄を、現実を無視して、自分の都合のいい、勝手に設定した世界の中でのみ考察するところに、非論理性が生まれてくる。このとき、現実の世界では無視していたパラメーターが、実は大事だったということがいくらでも出てくる。だから、その都度予想と違う誤差を埋めるために考えなければならない。しかし、この誤差を埋めるために、ご都合主義的な論理を使うと、さらに誤差が大きくなっていく。 現実を考察の対象にするときは、その複雑性を無視することが出来ない。だから、現実の考察は、そこに真理を発見しようと思ったら難しいことを知らなければならないだろう。小泉さんのように、わかりやすく単純化しているのは、どこかでごまかしがあるんじゃないかと疑ってかからなければならない。 自然科学の方では、法則が単純化されているのではないかという印象を持つ人もいるかもしれない。しかしその単純化は、例えば物理学などでは、現実の自然そのままで考察するのではなく、単純化した抽象的な空間概念の基で考察したりする。だから配慮すべき事柄があとからいくらでも出てくるという心配がないので単純化されるだけだ。つまり、数学のように、最初に考察する対象を決めてしまうので、その分単純化されるのだ。 それでは物理学なども、小泉さんの言葉のようにすぐに信じてはいけないのだろうか。これは、やはりそうなると思う。物理学は、あくまでも抽象的な物理世界という対象において成立する真理に過ぎないのだ。それが現実世界に適用されるときは、いつも誤差というものが問題になる。その誤差を意識していないと、物理学の単純な真理に目を曇らされて、現実の判断を間違えるということも起きてくるだろう。 物理学が現実においても有効性を持っているのは、その誤差が無視しうるかどうかということも考察の対象にして、物理学の理論が現実世界のモデルとなっているかも判断しているからだ。もし、小泉さんの言葉が、現実にも正しいというのなら、その主張が展開されている世界が、現実の正しいモデルになっているという証明もされなければ論理的ではない。もしそれがなされていなくて、単にご都合主義的に解釈しているだけなら、誤差が出てきたときも、後追い的にそれを解釈して、現実につじつまを合わせようとするだけで未来に対しての有効性を持たない言葉になるだろう。 このあたりの論理構造は、昨日例に出した天動説とよく似ている。天動説も、見たままの世界を解釈することによって成立している。今までに見た世界というものが、それが繰り返し起きることで法則化されている。現実の世界が、もしもそのように見たものをそのまま記述すれば足りるのであれば、天動説は正しい理論になる。天動説は、そういうふうにして、単純な繰り返しにとどまるものに対してはは正しく記述したに違いない。 しかし、その繰り返しが、相当長い周期を持っているような複雑なものであると、単純に経験として現れずに、今までの解釈と齟齬を起こす誤差となって見えてくる。現代の発達した論理的発想なら、天動説という論理は、それが正しいと思って設定している抽象的世界が、現実の世界のモデルとしてはふさわしくないのではないかという疑いを持つのだが、宗教的にも天動説が絶対的真理だという前提があると、このような発想は生まれてこない。 天動説という理論を守るために、誤差を新たに解釈する論理が必要になってくる。しかし、それはあくまでも解釈なので、それまでの経験的事実にはつじつまが合っているけれども、未来に対しては有効性を持たない。特に、天動説世界というモデルと現実世界とが、深刻に食い違う部分では理論の間違いは避けられないものになる。 これは、論理的には、天動説世界はあくまでも抽象的なモデルなのだと理解することが正しいのだが、現実世界とイコールだと考えるところに最大の間違いがある。モデルを、地動説世界にしなければ、現実を正しく記述する理論としてはふさわしくなくなる。 なおここで僕が「論理」として語っているのは、形式論理に限定した狭い範囲の論理ではない。形式論理というのは、命題論理の世界という狭い世界にのみ通用する論理であるから、これを命題論理世界以外にも適用出来るとして持ち込めば、形式論理を使うことが間違いになる。これは、形式論理を適用することが論理的な間違いであり、あくまでも形式論理の正しさをよりどころにして主張の正しさを証明しようとすれば、それは詭弁と呼ばれる論理の間違いになるのだ。 現実には、形式論理が通用しない弁証法論理の世界をモデルにしなければならない対象がたくさんある。特に、違う視点がいくつも存在するような対象では、違う視点からの判断が対立し、そこに「客観的矛盾」として捉えられる存在を見つけることが出来る。そのようなものにも形式論理を適用すれば、それは詭弁となって返ってくる。 小泉さんが、イラク特措法に関しての議論の中で、「自衛隊が活動するところが非戦闘地域だ」というようなことをいったとき、その非論理性を批判する人が多かったが、これは形式論理的にはむしろ正しいのである。イラク特措法を文法的に解釈する限りでは、小泉さんのように言うしかないのである。「非戦闘地域」というのは、自衛隊が活動する前に、それが判断出来るようには規定されていないからだ。 非戦闘地域をどう判断するかがどこにも書かれていないのに、自衛隊はそこでのみ活動すると規定されていれば、この「のみ」という言葉がイコールの作用を及ぼして、非戦闘地域と自衛隊の活動地域は等しくなる。そうでなければ「のみ」とは言えないからだ。もし「のみ」でなければ、「非戦闘地域ではないのに、自衛隊が活動している」という可能性が現実にはあり得る。これが形式論理というものだ。 それでは、形式論理に従っていた小泉さんが、何故に非論理的と非難されなければならなかったのか。それは、イラク特措法の規定そのものが非現実的であり、現実を対象にした論理としてはデタラメだったからだ。現実には、「戦闘地域」なのか「非戦闘地域」なのかが分からない地域がいくらでも存在する。弁証法的な意味での矛盾がいくらでも指摘出来る対象が「非戦闘地域」というものなのである。 弁証法論理に従って考察しなければならない対象を、形式論理に従って判断しているのだから、これは詭弁であり論理的な間違いになる。だから非論理的という非難を浴びたのだ。 考察している対象が、形式論理に従うかどうか、もっと正確に言えば、どの側面が形式論理の適用が出来るか、ということは形式論理そのものではないが重要な問題である。それと同時に、もっとも難しい判断と言ってもいいだろう。その現実が、形式論理の適用が出来るもので、形式論理がモデルとして通用すると判断出来れば、形式論理そのものの適用はそれほど難しいものではない。単純で少ない法則をいくつか適用すればいいだけの話だからだ。 だから、論証においては、実はそれが形式論理で判断出来る事柄だと言うことを示すことが大事になる。小泉さんは、そこの部分を何も語らず、形式論理の適用をご都合主義的に、自分勝手に適用するので論理的な間違いを犯すと見ていいだろう。 僕は、形式論理を基礎にして判断しているので、すべてを形式論理に帰すると勘違いしている人もいるかも知れない。しかし、大事なことは、それが形式論理で判断出来る部分はどこにあるか、ということでそれをもっともよく考えるようにしている。むしろその判断が出来るようにするために論理というものを、独立して学ぶ意義が出てくるのだと感じている。 論理というものが威力を発揮するのは、単純な事柄に意味をつけて権威づけるところにあるのではない。判断の難しい、結論がどうして正しいのかが最初は分からない主張が、論理的に正当ならその結論が信じられると言うことを確かめるために、論理というものが役に立つのである。 だから、わかりやすい文章に対しては、ことさら論理を意識しなくてもいい。内田樹さんの文章などは、ほとんど論理を意識することなく、その記述を素直に受け取れば非常にわかりやすい。たとえその結論が常識と食い違っていても、今までの常識の方が間違っていたのだな、あるいは、常識をそれが成立する範囲以上に適用していたのだなと言うことが分かる。 しかし、宮台真司氏のいくつかの文章のように、非常に難解な文章は、論理という技術で分解してみないと、なかなかそこに書かれていることの真理性を理解することは難しい。例えば、宮台氏には『権力の予期理論』という超難解な本がある。ここには冒頭に、 「ダニエル・ベルは『資本主義の文化的危機』で次のように述べていた。 (1)アメリカの資本主義は、初期においてはピューリタニズムの精神主義的道徳主義やプロテスタンティズムに基づく実用主義・勤勉主義によって、支えられてきた。」 という文章がある。この文章をすんなりと読める人もいるかも知れないが、僕は、まず「ダニエル・ベル」とか『資本主義の文化的危機』という著書について知らないので、ここで知識の面でつまずいてしまう。また(1)の主張は、いきなり語られているので、まだ証明されていないことだ。しかし、これが真理であるという前提で語られているようにも感じる。真理性を信じられないことが真理であると受け止めなければならないところにまた難しさを感じる。 この難しさを乗り越えるには、知らなくても理解出来る事柄の理解、つまり論理構造の理解にまず努めることが大事ではないかと感じる。そして、後になって知識が増えてきたときに、再びこの言葉にかえってきて、最初見たときに理解出来なかったことが理解出来ることが、本当の意味で文章を理解したと言うことになるだろう。 ダニエル・ベルを知らなくても、(1)が真理であると証明出来なくても、そこで何が主張されているかという論理を受け取ることは出来る。難しい事柄の理解には、それが第一歩になるのではないかと思う。 かつて、記号論理がすべての数学の理解に有効だと感じたのは、そこで語られている対象について何も知らなくても、まずは論理構造をつかむことが出来たからだ。論理構造をつかむことができれば、そこで語られている対象について知ることも出来るようになる。同じように、さまざまな論理を理解することによって、現実を対象に記述している文章の理解の第一歩を踏み出すことが出来るのではないかと思う。特に難しい文章の理解の第一歩に論理の技術は有効性を発揮すると思う。 難しいことの理解に進まなければ、小泉さんの単純なメッセージに簡単にだまされてしまうだろう。僕は、複雑な現実の複雑さを、その難しさをもっと理解したいと思う。
by ksyuumei
| 2006-03-07 09:46
| 論理
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