「堀江メール問題」と「魔女狩り裁判」との論理構造の類似と相違

kissuiさんという方から「非論理的な主張」というエントリーにコメントをもらった。それは、武部氏が「疑惑がない」ことを証明するのは、魔女裁判において魔女の疑惑をかけられた人がその「疑惑がない」ことを証明するのと同じではないかということだった。

これは「疑惑がない」と言うことを証明したいということで共通点があるように見えるので、そこにだけ注目していると両者の違いが分からなくなる。しかし、そのあたりはこのエントリーにコメントしてくれたたまりさんの比喩で明快に語られていたと僕は感じていた。つまり論理的には、この問題は決着したと思っていた。

しかし、どうもまだ気分的な問題がすっきりしないようだ。これは、論理の構造ではなく、言葉にこだわってしまう人が陥る論理的な誤りだと思われる。内田さんのブログなどでも、時々たくさんの批判が寄せられるのも、論理の構造ではなく、内田さんが語る結論に含まれている過激な言葉に反応しているのが多いように僕は感じる。内田さんは、極めて明快でわかりやすい論理を語っているにもかかわらず、その結論が普通の常識とは違うものを提出したりするので、その結論を受け入れられない気分から、論理構造を理解するのではなく、言葉に反発を感じてしまうのだろうと思う。



今回の僕のエントリーでも、「堀江メール」がニセモノであることが証明されて、そのことによって武部氏の二男の疑惑も解消されたと思った人にとっては、疑惑はまだ消えていないという結論は気分的に受け入れがたいものかも知れない。しかし、論理的には「堀江メール」だけでは疑惑までは否定出来ないと言うのは、論理の法則であって、気分的には抵抗感があっても逆らうことの出来ないものなのだ。

「堀江メール」が本物であれば、それによって「資金提供疑惑」は「疑惑」ではなく「資金提供」の「事実」となる。しかし、それがニセモノであるということが公表されたので、「事実」の証明だと思ったものは間違っていたと言うことになる。他の証拠が出て「事実」であることが証明される可能性が残されているものの、今の時点では「事実」だとは断言出来なくなった。再び「疑惑」に戻ったのである。

「堀江メール」のニセモノ性というのは、その程度のものなのだ。これによって「疑惑」がすべて否定されるという「事実無根」だという結論は、論理的には導かれないのだ。「事実無根」という表現は、あくまでもメールの存在そのものに限定して使うべきだというのが論理的な理解だ。論理的な関係は次のようになるだろう。

  堀江メールが本物だ → 送金の事実があった。

この仮言命題は、メールが本物だとしたら、堀江氏がそこに書かれていたとおりに行動したという前提で、「送金の事実があった」という結論を導いている。だから、堀江氏が実際にはそう行動しなかったら、この仮言命題は成り立たない。しかし、メールが本物だとした場合に、堀江氏がそのように行動しない・嘘をつくという合理的な理由が見つからないので、メールが本物であれば、「送金の事実があった」と結論してもいいだろうと思う。そして、そう結論すれば、よりたしかな証拠のために国政調査権を発動して、物理的な証拠を固めていくだろう。

この仮言命題の真偽は、その対偶と同じものになっている。対偶は

  送金の事実がなかった → 堀江メールはニセモノだ

事実がなければ、それをわざわざメールにして送る必要はないのだから、この対偶の真理性から、上の仮言命題の真理性も出てくる。送金の事実がないにもかかわらず、堀江メールが本物である可能性も、堀江氏が嘘をついているとすると考えられないこともないが、それは現実には合理的な理由を見いだせないので、現実性という観点からは排除してもいいだろう。

論理学では「逆は必ずしも真ならず」という法則もある。これに先の仮言命題を当てはめると、その逆は

  送金の事実があった → 堀江メールが本物だ

前提と結論を逆にするのを仮言命題の逆という。これは、送金の事実があったとしても、足がつきそうなメールでそれを連絡するとは考えられなかったら、送金の事実だけからはメールの本物性は証明されない。逆は必ずしも真ならずと言うことだ。そうすると、この対偶(論理学では裏などと呼ぶ)も、必ずしも真ではない。それは

  堀江メールがニセモノだ → 送金の事実はなかった

と表現される。だから、論理的に言えば、これが必ずしも真ではないことは、論理の法則として導かれるのだ。だから「資金提供疑惑」が「事実無根」だというのは非論理的な結論なのである。もしそれを論理的に導きたければ

  (A または B) かつ (A→B)  →  B

という論理法則を使うしかないだろう。つまり、(A→B)に当たる

  堀江メールがニセモノだ → 送金の事実はなかった

という仮言命題の正しさを別に証明しなければならない。この正しさを証明するには、メールのニセモノ性そのものの中に、送金の事実がなかったという根拠を見つけなければならないのだ。それが出来なければ、論理的には「事実無根」という断言は出来ない。しかし、これは民主党も自民党もどこも、そんなことはしていない。僕は出来ないだろうと思うのだが、これをしない限りは、論理的には「事実無根」という結論は認めがたい。

メール問題と、疑惑の論理的関係は以上のようなものだが、気分的にすっきりしないのは、「疑惑がない」ことを証明するのに、魔女裁判と同じように、証明不可能なことを証明することを要求されているように感じるからではないかと思う。それがまったく違うと言うことが分かれば気分的にはすっきりするかも知れない。

魔女裁判における問題は、それを裁くのが権力を持っている側にあるということだ。つまり、魔女裁判においては、証拠を調べてその証拠能力の有無を合理的に判断して、そこから論理的に正当な結論を導くように裁判が行われるという構造になっていないのだ。魔女裁判においては、権力に拘束された時点で、もはや魔女であることが確定してしまっていると言うところに問題がある。

あとは、その拘束が正当であるという理由を、どんなに無理があろうとも証明すればいいという構造になっていることが、論理的な問題になっている。インターネットの百科事典のウィキペディアによれば「魔女狩り」


「たとえば清教徒革命の時代(17世紀)にイギリス東部で「魔女狩り将軍」を名乗ったマシュー・ホプキンスなる人物がいた。彼は魔女とおぼしき人物を探し出し、体にある「魔女のしるし」を見つけては魔女であることを確定していた。」


と書かれている。「魔女のしるし」があれば魔女だと言うことが正しいという根拠はどこにもないが、権力ににらまれたらそうなってしまう。あとは、それだけでは足りないときは、拷問でも何でもして証拠を作ればいいと言うのが魔女裁判だ。無罪になる可能性は、おそらく「魔女のしるし」だと思ったのが間違いだったと権力が認めることにしかないだろう。

魔女裁判においては、魔女だという「疑惑」を持たれることがそのまま魔女であるという「事実」になっている。「疑惑」の証明という論理的手続きは存在しないか、論理的に間違った方法が採られている。だから、武部氏に関する疑惑の問題を、魔女裁判とのアナロジー(比喩)で語るなら、「疑惑」がそのまま「事実」となっているという前提を指摘しなければならないだろう。

権力の中枢にいる武部氏が、権力の弾圧に苦しめられた魔女に喩えられるというのは、笑い話の類なら問題はないが、この喩えをすることによってすでに権力の持っている危険性を忘れているように僕は思う。このような喩えが許されるなら、権力の犯罪は決して明らかにされることはないだろう。佐高信氏が語ったように、権力に対しては「フェアプレーは時期尚早」なのである。

むしろ、権力に対しては、厳しすぎるくらい厳しい目を向けて監視する必要があるだろう。日本の社会制度は、末端の市井の個人に対しては非常に厳しくその行動の公正さを求めるにもかかわらず、権力の中枢にいる者に対しては、談合や天下りはし放題で、税金の無駄遣いを明らかにするような手だてがどこにも存在していない。権力に対する甘さが随所に見られる。本質的に権力に甘い日本社会で、さらに権力にもう一つの甘さを付け加える必要はどこにもないと僕は思う。

武部氏とその二男が疑惑を解消する方法はいくらでもあるだろう。少なくとも、現実的な疑惑は、無限の可能性は持っていない。具体的に提出されたいくつかの疑惑に答えさえすればいいのだと思う。

かつて、田中真紀子さんは、長女の結婚生活のことまでもが週刊誌で取り上げられた。これを、政治家としての公人性からやむをえないと考えるのなら、武部氏が個人的に関係していた堀江氏とのことも、プライベートではなく公人としての責任として公開すべきだろうと思う。

田中さんの長女は、田中さんの政治生活との関わりも少なかったそうなのに、その私生活までもが暴露の対象になった。武部氏は、公認でもないのに選挙の応援に行ったと言うことは、政治的にはそのつながりは否定しようのない事実だ。それを個人的なプライベートなつきあいだと言っていたら、政治家は都合の悪いことはなんでもプライベートで逃げられてしまう。

資金提供疑惑は、このような「私生活」からも生まれてくる疑惑だ。だから、堀江氏との関係をすべて明らかにすることが、武部氏とその二男の疑惑を本当に解消することになるだろう。それがなされない限りは、たかがメールの真偽程度で疑惑が「事実無根」だとは言われたくないのである。

宮台真司氏は、政治家にプライベートはないと言い切っていた。政治家である間は、すべてが公人としての生活であって、私人としての生活はないと断言していた。僕も、政治家に対しては、それくらい厳しい目で見ていいと思う。そうでなければ不正を告発するなどと言うことは出来ないだろうと思う。
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by ksyuumei | 2006-03-05 10:22 | 政治


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