実無限と可能無限

野矢茂樹さんの『無限論の教室』(講談社現代新書)では、実無限と可能無限が中心的な話題となっている。野矢さんの分身のようなタジマ先生は、実無限に懐疑的で、無限の概念としては可能無限だけを認めるべきだと主張している。

実無限というのは、無限の対象の全体性を把握して、無限が実際に存在しているとする立場だ。可能無限というのは、無限を把握出来るのは、限りがないということを確認する操作が存在していることだけで、無限全体というのは認識出来ないとする立場だ。

実無限を認めないという立場は、それなりに納得出来るものだ。無限という言葉で呼んではいても、その細部にわたってそれが分かっていないとき、それを果たして「無限」という言葉で呼んでいいものかどうかに疑問を持つというのは正当な疑問のように思える。よく分かっていないものに対して「無限」という判断をするのは、単に名前を付けているだけのような気もする。



例えば、科学者というのは霊というものを認めない。これは追試が出来ない対象だから、存在が証明されたとは考えないのだ。何か得体の知れないものが存在すると言うことには同意する。その得体の知れないものに「霊」という名前を付けたと言うだけのことなら、これ自体は事実でも何でもないただの定義だからいいだろう。しかし、それは得体が知れない「何か」であって、「霊」と呼ばれる実体が存在しているのではないのだ。

「実無限」というものも、何か得体の知れないつかみきれない、限界を持たない存在があることは分かる。しかし、それは得体の知れないものにとりあえず「実無限」という名前を付けただけだ、と考えることも出来る。「実無限」という無限が存在すると結論してはいけないというのが、可能無限しか認めないという立場になるだろうと思う。

可能無限というのは、その細部にわたって把握が出来る無限だ。例えば自然数は可能無限の一つとして考えられる。これは、1からスタートして(野矢さんの本では0からスタートしている。これは理論的には0から始めた方が扱いやすい。しかし「自然」という言葉にこだわるなら、やはり1からスタートした方がいいだろうか。)順に1をプラスしていくという方法で、どこまでも限りなく自然数を作り出していくことが出来る。そして、その作り方だけで生み出されるものに限定して自然数という対象が出来る。

任意の対象が、どのようにして作り出されるかが把握出来ると言うことが可能無限の特徴と言うことになるだろうか。これが実数になると、実数を作り出す方法というものが自然数の方ほどすっきりとは見つからない。無限小数によって実数を作り出すと考えていいような気もするのだが、どうもあまりすっきりしない。

そのすっきりしない感じは、自然数というのは、任意の対象を取ってきたときに、その構成手順というのが有限回で終わることが確認出来るが、無限小数の場合は、手順そのものが無限になってしまい、これが可能であるという確認が出来ないからだ。有限回の手順ならそれが終わることが分かる。しかし、無限の手順によってなされる操作は、それが終わるかどうか分からない。それが「可能」だとは分からなくなる。

可能無限の立場からすると実数全体という無限集合は認めがたいものになる。それが限りがないということでは「無限」だと呼んでもいいだろうが、全体を把握して考察の対象にするのは、その全体像がハッキリしないのであるから論理的には危ないという予想が生まれてくる。いつパラドックスが生まれるか分からないと言うわけだ。

これは数学屋にとってははなはだ困ったことだ。実数の全体を認めてくれないと、実数の連続性も考えることが出来ない。有理数というのは分数の形で表される数のことを言うので、これは自然数と同様に構成的に作り出すことが出来る。有理数全体の集合は可能無限の集合として構成することが出来る。

この有理数の集合を二つに分けて「切断」というものを考える。一方の集合に入る数は、もう一方の集合に入るどの数よりも小さいという性質を持たせて「切断」というものを考える。そうすると、「切断」の仕方によっては有理数には隙間があることが証明される。二つの集合のどちらにも、最大数・最小数が存在しないときがある。この隙間を埋めるものとして、有理数でないもの・すなわち無理数を考えて、有理数と無理数を合わせて実数というものを考える。

無理数というのは、有理数の隙間を埋めるものであるから、実数にはもはや隙間が存在しない。だから実数は連続性を持っていると考えることが出来る。このように考えるのは、数学的には何の問題もないと思えるのだが、ここで考えられた実数は、どのようにして具体化されるかと言うことはまったく分からない。

その数が有理数であることは分数の形になることが分かれば、有限回の手順で判断することが出来る。小数の形にしても、循環する小数であれば有理数であることが分かる。これも有限回の手順で判断出来る。しかし、無理数であることは、循環しない小数であることが示されなければならない。これは無限回の手順を必要とする判断になる。実際には、循環小数になると仮定すると矛盾が生じるという背理法で無理数になることを証明する。だから、無理数の世界は、背理法が使える、矛盾律が成り立つ形式論理の世界でなければならない。

形式論理の世界で、ある数が無理数であることが証明されたとしても、それは、その具体的な対象に対して証明されただけであって、無理数全体というものが把握されたわけではない。ルート2や円周率のパイが無理数であると証明されたからといって、それで無理数の全体が分かったわけではない。それなのに、強引に無理数の全体を対象にして実数という無限集合を対象にするのは、「実無限」の考え方を取っていることを意味する。

実無限の立場を否定すると、実数の集合さえも対象に出来なくなるので、ほとんどの数学が成立しなくなり数学としては本当に困った状態になる。だから、数学屋としては実無限を認めるという立場がどうしても基本的なものになる。しかし、僕はこれはそれほど危険なことではないとも感じている。

数学というのは、現実に存在する具体的なものを対象にしているのではないからだ。その対象は、頭の中で抽象された観念的な存在になっている。だから、「実無限」である実数も、それはあくまでも数学的抽象世界で存在しているものに過ぎないからだ。「実無限」と言っても「現実存在」ではないのである。

数学的世界は、「実無限」が存在する世界として設定しうると僕は思っている。それが何らかのパラドックスと関係してくるときは、その世界にある種の制限を設けて、都合の悪いパラドックスを回避すればいいと思っている。ラッセルが考えたタイプ理論や、公理的集合論はそのような方向での工夫だと思っている。

しかし、現実を対象とする科学が、素朴に「実無限」を設定すると避けられないパラドックスに苦しめられることが起きてくるのではないか。ゼノンの「アキレスと亀」のパラドックスに関しても、どうやら現実の運動に「実無限」を引き込んだために生じたのではないかという感じもしてきた。

ゼノンは、時間と空間の無限分割可能性からパラドックスを導いている。アキレスの前を行く亀に対して、亀が元いた場所にアキレスが到達するという運動が、空間的隔たりと、時間的隔たりを持っていて、追いついたときには亀が少し先にいるということから、無限に分割されると考えるとパラドックスが生じる。

これは、現実の時間において、運動の結果としてアキレスが亀を追い越すことから、最初は時間のパラドックスなのかと感じていたが、時間と関係なく「無限」が持っている概念的なパラドックスになることが野矢さんの本で分かった。空間と時間が無限分割されると考えるのは、その無限分割が全体性として把握出来るという「実無限」の考えになってしまう。

これを論理として考えれば、

  1 アキレスが亀に追いつく
  2 亀が少し前にいる

という行為の繰り返しが存在すると言うことを、可能無限として語っているだけだから、論理的には矛盾はないことになる。しかし、この行為が無限に行われているところが全体として把握されていると考えると困ったことになる。全体として把握されてしまうと、その全体は終わっているものとして掴まれなければならない。それでは、無限に続く最後の行為はいったいいつ行われたのかと言うことが問題になる。

最後の行為がないからこそ可能無限として存在するのに、それを実無限のように全体が把握されたと考えると、最後の行為があったと考えなければならなくなる。ゼノンのパラドックス以上の深刻なパラドックスがここには存在する。ゼノンのパラドックスは、現実に追いつけないという主張は、現実に追いついて追い抜いてしまうことによって否定されるが、最後の行為がないはずなのに、最後の行為があったというパラドックスは、現実の行為では否定出来ない概念的なパラドックスになるからだ。

このことを野矢さんは、一つの行為ごとに自然数を数えていくという比喩で語っている。そうすれば、最後の行為を行ったときに、最後の自然数を数え終わっていなければならない。最後の自然数とはいったい何か?自然数は1を足していけばいくらでも大きな自然数を作ることが出来る。最後に数え終わった自然数に1を足したら、それは自然数にならないのか。

このパラドックスは、時間とは関係なく設定・考察出来る。「アキレスと亀」のパラドックスは、本質的には「実無限」と「可能無限」のパラドックスとして捉えるのが解決の方向なのではないかと感じた。数学のような、観念的・抽象的な対象のみに限定して考えるときは、実無限を導入して、それが都合が悪くなりそうなときは回避する工夫が出来るが、現実に実無限の考えを導入すると、回避不可能なパラドックスが生じるのではないだろうか。

具体的な現実に存在するのは可能無限だけで、実無限はないのだと考えた方がいいように思う。本多勝一さんが、客観と主観について考察したとき、現実の客観は「無限」に多様だから、それを選択するという主観がどうしても入り込むと言うことから、客観と主観の対立物の統一という弁証法的なとらえ方が発見されていた。

このときの「無限」というのは、あくまでも可能無限なのだと思う。それは、多様性の全体がはじめから存在しているのではなく、それを見つけようと思えば、きりがなく見つかるという意味での可能無限なのだと思う。

哲学者の議論は、あまりに細かいところに拘泥していると感じることもあるが、野矢さんの議論は、正しい認識のための厳密さというものを感じる。最近「現象論」にも関心を持って調べているのだが、実無限と可能無限の区別をして現実を捉えるという発想は、「現象論」の基本的な考えにも通じるものがあるのではないかとも感じる。実無限と可能無限の考察は、「現象論」の理解にも役に立つのではないかと感じている。
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by ksyuumei | 2006-03-03 09:38 | 論理


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