論理トレーニング5 順接の論理;練習問題1の続き

問4
(1)分裂病で幻覚といえば、眼前に見える幻視は少なく、大部分を占めるのは幻聴であり、
  (a)[それゆえ/しかも]
(2)聞こえてくるのはメロディーや雑音の類ではなく、人間の声であり言葉である。
  (b)[従って/そして]
(3)こうした聴覚空間を舞台として進行する分裂病的世界は、優れて言語的描写に適しているように見える。
  (c)[それゆえ/例えば]
(4)自らも分裂病的心性を持っていたカフカの作品は「孤独の三部作」をはじめとしてその好例となるものが多い。
  (d)[つまり/それゆえ]、
(5)そこでは極めて硬質な文体ながら、不明瞭なもの、無限定なもの、不安定なものという分裂病的世界が漂い、くまなく浸透しているのである。


まずはそれぞれの主題を簡単にまとめてみよう。
(1)分裂病の幻覚は大部分が幻聴だ。
(2)その幻聴は人間の声だ。
(3)人間の声は言語描写に適している。
(4)カフカの文学作品にその例が見られる。
(5)カフカの言語描写には分裂病的な特徴が深く見られる。



この主題の論理的な関係から構造を判断し、接続詞を選んでいく。

(1)は分裂病の幻覚に関する一般論的言明で、(2)は(1)で語っている「幻聴」について、その中身を詳しく語っている。つまり、同じ一般論を展開しているのでもなく、具体例を提出しているのでもなく、(1)の補足説明として付け加えたものだから、

  付加 (1)+(2):接続詞=しかも

になる。(2)と(3)の関係は、(2)で語った人間の声というものが言語であるということから、言語描写というものが導かれる。つまり(3)は(2)からの論理的帰結として提出されている。従って構造及び接続詞は、

  論証 (2)→(3):接続詞=従って

になる。(4)は、(3)で語った言語描写の具体例としてカフカについて語っている。だから、それは例示であり、この解答は

  例示 (3)-例(4):接続詞=例えば

になる。最後の(4)と(5)の関係はちょっと難しい。「つまり」という接続詞が、それより前のことをまとめて言い直した「解説」とも考えられるし、「論証」の帰結を語った結論とも考えられるからだ。

内容的には、(4)と(5)の関係は、カフカの作品が分裂病的特徴を持ったものの例として挙げられていることから、そこからその特徴を読みとれるという論理的帰結を語ったものとして判断出来る。だから、どちらの接続詞もそれなりに「論証」を語ったものとして選ばれる可能性がある。

しかし、ここではニュアンスという面を考えると、「それゆえ」がふさわしいのではないかと思う。「つまり」という言葉には、前のいくつかの言明をまとめて語るというニュアンスが含まれているように思うからだ。複数の前提から帰結される「論証」を語るのなら「つまり」がふさわしいのではないかと思う。この問題の場合は、前提としては分裂病の幻聴に関するものだけだから、ニュアンス的に「それゆえ」の方がふさわしいものと考えられる。従って解答は、

  論証 (4)→(5):接続詞=それゆえ

だと思う。


問5(これは、接続構造の図示が問題になっている。)
(1)何事かを説明するとき、我々は必ず現実からなにがしかの距離を取らなければならない。
  (a)[例えば]
(2)友人のために自宅までの地図を描いてやることを考えてみよう。
(3)この場合にも、我々はすでに「現実から一歩離れている」。
  (b)[つまり]
(4)地図を描くということは、自分で彼を家まで連れてくることとは違う。
  (c)[むしろ]
(5)現実そのものの街を彼とともに歩かないで済むところに、地図を描く効用があるのである。
  (d)[また]
(6)そのような地図を描く際、我々は自宅にたどり着くのに必要な道筋や目安を書き込むけれども、「あまりに小さなこと」や「目安にならないこと」は書き入れない。
(7)この家には鯉を飼った池があるとか、この魚屋はめったにまけないとか、ここによく子供が遊んでいるといったことは書かないのである。同様に、
(8)説明もまた、ただ事実そのものの事細かな記述ではない。
(9)何を説明するかがまずあり、それにとって必要なことのみを詳述したものが説明なのである。


これも、まずはそれぞれの主題をまとめてみる。

(1)説明のためには現実から距離を取らなければならない。
(2)(1)の具体例を語る。
(3)(2)が(1)の具体例であることを確認している。
(4)具体例が、説明が現実とは違うことであることを言う。
(5)その違いから得られる効用を語る。
(6)具体例の他の特徴の説明。
(7)(6)の説明の具体例
(8)地図という具体例を離れて「説明」という一般論的結論。
(9)(8)の一般論をさらにわかりやすく説明している。

以上の主題の間にどのような構造があるかを考える。(1)の一般論に対して、地図を描くという具体例が挙げられているが、その具体例は(7)まで綴られている。従って、ここの構造は、

  例示 (1)-例((2)~(7))

になる。(1)と(8)と(9)の関係は、一般論として同じ主張を違う視点・側面から語っているように思われる。だから、構造としては、解説だと考えられて、

  解説 (1)=(8)=(9)

になるように思われるのだが、僕には(9)の主張が非常に説得力あるものとして伝わってくる。「説明」という事柄が、単に目の前の事実を語ったものではなく、「説明」の目的があって、初めて「説明」としての機能を果たすと言うことに大きな説得力を感じて共感する。いくら目の前の事実を語っていても、それが末梢的なところを徘徊するようなことであれば、まったく「説明」になっていないという感じが僕にはするからだ。

この(9)に説得力を感じると言うことは、僕にとって(9)は論証の帰結であると感じられるからではないかと思う。従って、この論理構造は僕にとって

  解説と論証 ((1)=(8)ここに(2)~(7)の例示が含まれる)→(9)

のように感じる。(9)の前の言明が、すべて(9)が正しいことの根拠になっているように読める。

あと接続詞と関わる部分の構造については、次のようなものが入れ子式に全体の構造の中に入っているものと思われる。

 つまり … 解説 (3)=(4) 同じことを違う視点で語る

 むしろ … 付加 (4)+(5) (4)の効用という面を付け加える

 また  … 付加 ((3)~(5))+((6)~(7))
     (3)~(5)で触れなかったことを(6)~(7)で付け加える


この二つの問題は、その主題となる主張が説得力があり、共感出来るものであるという点で、問題としても素晴らしいと思う。論理的に優れた文章で論理トレーニングをするというのは、技術の向上のためにはいいことだと思う。

かつて、本多勝一さんは、作文技術を学ぶには、いい文章が何故にいいのかを味わうことが大事だというようなことを言っていた。僕もそう思う。論理トレーニングにおいても、論理的に優れた文章でトレーニングをすべきだと思う。ディベートのように、詭弁まがいの論理でトレーニングをすれば、偏りのあるゆがんだ技術を身につけるのではないかと僕は感じる。

芸術だって、優れたものに触れなければ優れた感性は育たない。それは誰でも賛成するだろう。だから、論理においても、やはり優れた教材で学ぶべきだと僕は思う。
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by ksyuumei | 2006-03-01 10:44 | 論理


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