かつて本多勝一さんが、表題にあるような3つの言葉の違いについて考察した評論を読んだことがある。本多さんは、ジャーナリストという仕事の中で、優れた実績をあげることによって鍛えられた見事な弁証法を駆使する人として僕は尊敬していた。客観的事実というものを論じた際の、主観を通した客観しか存在し得ないという主張を読んだときに感じた、その弁証法性の見事さは、ジャーナリストとしてのルポだけではなく評論においても優れていると感じたものだ。
本多さんは、表題の3つの言葉に意味の違いはないと結論していた。違いがあるとすればニュアンスに違いがあるだけだと。いずれも意味としては「本当のこと」という「本当」に重点がかかった意味になる。その「本当」の判断の対象になるものが微妙にニュアンスが違って来るというのが本多さんの主張だったと記憶している。 事実というのは、過去の出来事の中で「本当にあったこと」というようなニュアンスになるだろうか。つまりこれは個別的な出来事の「本当性」を問題にしていると考えられる。「南京大虐殺」が事実かどうかというのは、本多さんも関わった事実を巡る大問題だが、これは本来は事実を巡る問題として捉えるべきものなのに、ほとんどは事実ではなく言葉の定義の問題を議論しているように僕には見える。 つまり、何を「大虐殺」と捉えるかという議論が展開されているだけであって、そこで本当は何が行われていたのかという事実が議論されていない。この問題は、本多さんが定義する「大虐殺」に照らして事実を考えれば「南京大虐殺があった」と結論することが当然であり、それに反対する人が定義する言葉に照らして事実を見れば「南京大虐殺はなかった」と結論するのが当然だと思う。これは、「あった」とも「無かった」とも言える、対立物が両立する矛盾として弁証法的に理解しなければならないだろう。 言葉の定義ではなく、現象として何があったかという事実の問題であれば、それなりの結論を一般的に提出することは可能だろうと思う。例えば事故があったとか火事があったとか言う報道は、それが事実であるかどうかは決定出来るとほとんどの人は考えているはずだ。それを実際に自分の目で見ていなければ、それが事実であるかどうか(つまりあったことなのか、無かったことなのか)が分からないと主張する人はいないだろう。 しかし、この事故や火事の解釈、つまり何が原因でそれが起こったかなどということを考えると、これは事実ではなく解釈になるから、結論が一つに決まると言うことはなくなる。「南京大虐殺」で語られる事実が、日本軍固有の属性から起こった個別的出来事と解釈されるのか、戦争であればどこでも起こることとして解釈されるのかは、何を本質と見るかで違ってくる。本多さんは、「侵略する軍隊」の属性から起こるものと捉えていたようだ。イラクでのアメリカ軍やイギリス軍を見ていると、その解釈の正しさを感じる。しかし、これは解釈であるから反対する人がいても仕方がない。 事実は「本当のこと」であるから、立場にかかわらず認めざるを得ないものを提出することが出来る。だから、本多さんは、ルポにおいてもっとも大切なのは何が事実なのかを知らせることだと主張していた。ルポライターの主張そのものは必要最小限に抑えて、出来るならばすべてを事実で埋め尽くすことが出来るものが優れたルポだと考えていたようだ。 この「事実」のニュアンスと比べて、「真実」の方はかなり情緒的な思いが入ってくると本多さんは指摘していた。「事実」にはある意味では価値判断が入らない。「本当」か「本当でない」かどちらであるかを判断基準にしているだけだ。しかし「真実」を語るときは、その「本当」がとても大切なものであるという情緒的な価値判断が入ってきている。だから、この言葉は文学的表現にはふさわしいかも知れないが、ルポのように客観性を大事にする文章では使わない方がいいだろうということも書いていたように記憶している。 最後の「真理」という言葉だが、これは「事実」が個別的な対象を扱っていたのに対して、一般的・普遍的な対象に対して「本当のこと」を語るところに「真理」の特徴がある。「昨日の夜雨が降った」というようなことが「真理」であるかどうかを語るのは大げさすぎる。しかし、どのような気圧配置の時に雨が降りやすいかという気象法則を語るようになると、これは「真理」について語っているのだなと感じる。 これは、科学における「本当のこと」を考えると、そこではほとんど普遍的な対象を考えているので、やはり「真理」と呼ぶのがふさわしい感じがする。実験で確かめることは個別的なことであろうと、ノーミソの目は、その個別を越えて普遍的な「真理」を見ようとしている。 科学には分類されない学問と呼ばれるものでも「本当のこと」を論じているものは、やはり普遍性を持った「真理」として語っているのだろうと思う。文学における「本当のこと」も、それが文学と呼ばれる限りでは、自分だけに起こった事実として語るのではなく、誰もが体験するような事実として「真理」にまで高めたことを語るのではないだろうか。 科学に分類されないのは、方法論が確立されていないから分類されないだけであって、文学においても「真理」の判定方法が確立されればそれは「文学」という科学になるに違いない。三浦つとむさんによれば、夏目漱石はそのような科学としての「文学」を求めたらしい。漱石の小説は、その科学性を追求した論文としても読めるというようなことをどこかで書いていた。 本多さんが考察した「事実」「真実」「真理」という言葉の分析は、僕には非常に論理的に整合性があると感じられたので、ほぼそれに賛成しているのだが、これを哲学的に厳密に分析すると、すべてが確定出来ないものとして懐疑にさらされる。そもそも「本当」と言うことが確定出来ないという結論が導かれてしまうのが、厳密な議論としての哲学の結論だ。 僕は、哲学は嫌いじゃないけれど、厳密すぎる議論というのは、しばしば的はずれな結論を出すものだなと感じるときがある。いわゆる不可知論というのは、すべては確定出来ないのだから世界は混沌としているということで終わってしまう。何も確かなことはないのだという結論は、その確かさにも差があって区別が出来るという考え方も否定してしまう。 実際には、信じるに値するものと、眉につばをつけて疑うものとがあるのが普通の世の中だろう。その区別が正しくできることが、ある意味では人生を真っ当に生きることにもなる。すべてが確かでないとなったら、その区別が出来ないのであるから、真っ当に生きることも難しくなる。確かじゃないから何でもありだと言うことになれば、社会は乱れていくことになるだろう。 哲学者の厳密な議論というのは、そのものに対しての理解が浅かったり、配慮が浅かったりしたときは、それを戒めるのに役立つ。だから、時には深い議論をして、その問題の難しさを感じることも大事だろう。しかし、難しいから結論が出ないと考えたり、「真理」などどこにもないと考えるのは、やはり短絡的な思考のように感じる。 その「真理」の確かさはどの程度の信頼性を持っているのかと言うことが区別出来るように問題を設定すべきだろうと思う。一般的に「水は100度で沸騰する」という真理があったとき、個別的な事実として沸騰の温度が100度でなかったとしても、ここから直ちにこれが真理ではない、真理など無いのだと結論することは出来ない。 ここから得られる教訓は、「水は100度で沸騰する」という真理は、実はある条件を満たした世界で成立する真理なのだと考えることだ。「真理」の場合は、一般的・普遍的なものとして語るので、ここには抽象化された世界を対象とするということが前提とされている。その抽象化が真理の条件を規定することを考えなければならない。 「事実」の場合は、それが「事実」であるという判断は、自分の体験であれば、ある程度の感覚(視覚・聴覚・触覚など)を信頼するという前提で考えられる。これらの感覚がまったく信用出来ないものであれば、体験でさえも「事実」と判断することが出来なくなる。 また実際に自分で体験出来ないことは、他人の体験が「事実」であることを信用するしかない。これも、すべて信用出来ないと排除するならば、「事実」を判断することはあきらめなければならない。「事実」の場合は、究極的には根拠のない信頼にどこかで行き着いてしまうが、それが根拠がないからといって拒否するのは、哲学的に厳密な議論を一度してみようと言うときには意味があるが、現実に対して論理的な判断をしようと思ったら、どこかを出発点にしなければ論理は始まらない。 人間が存在しなかったころの地球にどんな事実があったかは、想像することしかできない。直接確かめることは原理的に不可能だ。他者の体験として信じることも出来ないし、もちろん自分で体験出来ることではない。この、想像という解釈しかできない対象に対して、果たして「事実」が確定出来るのだろうか。 今僕は「人間が存在しなかったころの地球」と書いたが、これは「事実」なのだろうか。大昔に人間が存在しなかったことはどのようにして我々に知られるようになったのだろうか。化石が発見されていないとしても、それは「化石がない」と言うことが事実なのであって、「だから人間はいなかった」とするのは解釈になる。人間存在が地球の存在の途中に生まれてきたというのは「進化論」の常識として、知識としては誰もが知っているが、本当に認識として分かっているだろうか。 このことが本当に「事実」だというふうに理解出来れば、「事実」を確かめるという方法論が一つ分かるに違いない。進化論は、どのような考察からこのような「事実」を突き止めたのだろうか。おそらくそれは「論理」というものに重要な意味があるのではないかと感じるが調べてみたいものだ。 「原子論」という科学も、人間が原理的に見ることが不可能な世界を見て「真理」を論じるものだ。「原子論」が真理であるという認識は、「論理というメガネ」をかけてノーミソの目で原子の世界を眺めることによって得られると思う。そのことが「本当だ」という根拠は、どのような考えから確信されるのか。それは一度哲学的に厳密に考えてみる値打ちのあることではないかと感じる。板倉さんの本を参考に考えてみようと思う。
by ksyuumei
| 2006-02-16 09:45
| 論理
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