事実の問題

ジャーナリストの浅井久仁臣さんのブログに「「捕虜収容所はなかった」  補筆版」というエントリーがある。このエントリーに書かれたコメントの中に、「「南京虐殺があった」という為には、その場で見聞した人の証言を用いる必要がある」という文章があった。

この判断は、論理的に考えて間違っているのではないかと思い、そこに僕もコメントを書いてきたのだが、僕がこの主張に疑問を感じたのは、これが「ノーミソの目」を否定するような言い方に聞こえたからだ。ここで語られているのは、事実というのは、現実の目で見たことを基礎にしなければ信用出来ないという立場であって、ノーミソの目で見たことは単なる推測に過ぎないから信用出来ないと主張しているように見える。

僕は、推測であっても100%に近いくらい信用出来る推測もあれば、0%に近いくらい当たらない占いのように信用出来ない推測もあると思っている。最近では、ホリエモンが世界一の金持ちになると言う細木数子の占いは、当たらない占いの代表になってしまったと思うが、ニュートン力学による運動の予測は、ノーミソの目による推測だがほぼ100%当たる推測になっていると思う。



推測が信用出来るものであるかどうかは、その推測そのものを分析して判断しなければならない。それが推測であると言うことだけから、その信頼度が決まってしまうのではないのだ。僕は、推測が信頼出来るかどうかは、その推測が持っている論理的整合性の度合いによって決まると思っている。

細木数子の占いには論理的整合性を見つけられないから、これが当たらないとしても仕方がない。むしろ、当たったときの方が偶然当たったのだと見る方が正しいだろう。ニュートン力学は、その論理的整合性が明確に理解出来る。論理の正しさを認める人間なら、ニュートン力学の理論が正しいことを認めるだろう。

ただ、ニュートン力学の論理的正しさは抽象世界の論理的整合性だ。質量が集まった「質点」というものが現実にそのまま存在するわけではない。現実に存在するのは大きさを持った物体であり、位置情報だけの「点」というのは抽象世界にしか存在しない。だから、抽象世界で100%正しいと感じる理論も、現実に適用するときは100%でなくなると言う注意が必要だ。現実がその理論をモデルに出来るということの判断が、その推測への信頼度を決める。

推測というものをノーミソの目で見ることだと考えれば、以上のような考察が可能になると思う。実際に体験した人の言うことだけが信頼出来るのではなく、むしろ推測の方が信頼出来ることもあるだろう。自然科学では、原子論などは体験出来る人間、すなわち原子を現実の目で見ることの出来る人間がいないにもかかわらず、推測によって、原子の存在を疑う科学者はほとんどいないというくらい信用出来るものになってきている。他人の目というノーミソの目は体験の地平を越えるという宮台氏の指摘がここにも見られる。

逆に、現実には体験が信用出来ないと言う「錯覚」の問題も考えることが出来る。手品を見ている人間の体験などは、体験がいかに錯覚に満ちているかを見ることが出来るだろう。何もない箱の中から鳩が出てきたりするのを見て、自分は確かにそれを見たという体験を主張すれば、手品師は「無から生命を生んだ」と言うことになるだろう。しかし、これが科学の法則に反することは明らかだから誰も信用しない。むしろ、その体験はだまされたものであり、手品には種があるのだという推測をする方が正しい。

体験が信用に足るものであるためにはどのような条件が必要かと言うことも論理の問題として重要だ。これも、僕は論理的整合性というものが、信頼性の判断においては最も重要なものだと思っている。裁判における証言の信頼性というのも、他に明らかになっている事実との論理的整合性が取れるかどうかで判断しているのではないだろうか。

本多勝一さんが「中国の旅」というルポを書いたときに、これが聞き書きであるから事実としては疑わしいものもあるのではないかという批判があった。これは一般論としては、確かに聞き書きにはそういう面があることは確かだろう。しかし一般論としてそうだからと言って、「中国の旅」もそのような疑いがあると短絡的に判断することは出来ない。「中国の旅」の聞き書きの信頼性は、具体的にその聞き書きの内容を吟味して判断しなければならないことであって、一般論に解消する問題ではない。

本多さんは、聞き書きの内容が信用出来るかどうかを、聞いたことの内容が具体的にどこまで詳細に描けるかで判断していたと語っていた。例えば、ある体験がどのくらいの時間がかかったのかというふうな記憶が残っているかを確かめるときは、実際にそのくらいの時間がかかるかどうかを実験したりすることによって、その記憶が錯覚なのか確かな記憶なのかを確かめるというようなやり方だろうか。

コンピューターの記憶なら、その内容はどれも同じ重さで残っているが、人間の記憶は印象的なものと末梢的なものとでは残り方が違ってくる。印象的なことが中心になって残り、末梢的なことはあとから付け加えられることもある。このあとから付け加えることは、それなりにつじつまを合わせてあるのだが、どうしても無理があるからつじつまの合わないところも出てくる。つまり論理的整合性が取れない部分が出てくるのだ。そういうものを見つけたら、その記憶は信頼度が低いとして捨てなければならなくなるだろう。

アメリカでは、成人してから封印されていた幼児体験の記憶がよみがえって、幼児虐待で親を告発するという人がかなり出たことがあったそうだ。しかし、その中には、自分であとから作り出した記憶があったそうだ。実際には幼児虐待はなかったのだが、その後の体験から、幼児虐待があったという錯覚を持つようなことがあったらしい。それは本人にさえ分からない錯覚だったので、論理的なつじつまが合っていれば、その体験は正しい体験と解釈されたようだ。

だが、どこかに無理があって論理的整合性が崩れる記憶もあったようだ。しかし、この体験が事実であったか、事実でなかったかは原理的には誰にも分からないのではないかとも思う。事実ということの判断は、単に見たから・経験したからという主張だけでは決定出来ない。「胡蝶の夢」ではないが、自分が人間なのか蝶なのかというのは、絶対的に決める基準はないのだ。蝶が人間的な思考が出来ないという前提を認めれば、論理的に、人間的思考をしている自分は蝶ではあり得ないと結論出来るが、「蝶が人間的な思考が出来ない」という前提が絶対正しいと言うことは決められない。

事実の問題というのは、それがかなりの高い確率で事実である蓋然性が高いという判断しかできないのではないだろうか。事実そのものという対象はないのではないか。人間にとっては、それが事実であるという判断・解釈が正しいのかどうかと言うことしか言えないのではないだろうか。つまり、確実に言えるのは論理的側面だけではないのだろうか。

今ではあまりお目にかからなくなったが、ある主張に対して、その根拠となる「ソース」を提出しろと言うような要求が、かつてのインターネットでの議論もどきではよく見られた。これは、「ソース」という事実がその主張の正しさを判断する根拠になっていたと言うことだろう。しかし、事実というものが、その信頼性を判断することが難しいものであるという認識を持てば、どのような「ソース」だろうと、それが事実であるかどうかという判断は非常に難しいものになる。

だから、「ソース」を提出したとしても、実際には議論の正しさの信頼性はまったく上がらないとも言える。むしろ権威に寄りかかった「ソース」などは、別の意味の錯覚を引き起こすだろう。「ソース」の信頼性は、それを誰が提出しているかと言うところに求めるしかないから、論理的整合性を見ずに、権威だけから信頼性を引き出すという錯覚だ。

実際には議論の正しさは論理的整合性に求めるのが正しいと僕は思っている。「ソース」の問題は末梢的なものだ。むしろ、その「ソース」を信頼出来るとする判断に論理的整合性という要素が入ると考えるべきだろう。かつて「ソースを出せ」と声高に叫んでいた人間たちは、実は論理的整合性を判断することが出来なかったので、「ソース」の問題に解消するしかなかったのではないかと感じる。

今では「ソースを出せ」というような言い方をほとんど見かけなくなったのは、それが末梢的なことであると自覚する人が増えたせいだろうか。それともまだ2チャンネルあたりではそのような言い方が受け継がれているのだろうか。大事なのはソースではなく論理なのだと多くの人が気づいて欲しいものだと思う。
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by ksyuumei | 2006-02-14 09:31 | 論理


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