シカゴ・ブルースさんが「観念的自己分裂とはいかなるものか(1)」という文章で、三浦つとむさんのこの概念について語っている。僕にとってもこの概念はなじみ深いもので、三浦さんの哲学や認識論・言語論を語るときには切っても切れない縁のあるものだ。
僕は、この概念を、三浦さんの説明ではじめて正確に知るようになったと思っているが、この概念を含んだ現象については三浦さんを知る以前から多くの体験を重ねてきたことを感じていた。だからこそ、三浦さんの説明を読んだときに、その説明の正しさをすぐに感じ取ることも出来たのだと思っている。 僕が感じていた現象は、芸術の鑑賞などの時に経験した感情移入というものだった。二十歳くらいの時の僕は文学に夢中で特にドストエフスキーやカフカが好きだったが、『罪と罰』のラスコーリニコフがあたかも自分であるかのように物語に没頭したものだった。 殺人を犯す場面では同じように心臓が高鳴り、自分の犯した罪の重さを悔やむ場面では苦悩に苦しめられ、それを克服しようとして自分を特別な人間(天才)だと思い込む場面では、そのような思い上がりの気持ちも浮かんできた。そこにいたのはラスコーリニコフであると同時に自分自身でもあったという体験をしていた。 文学に限らず、芸術作品はこのような感情移入が出来ないとちっとも面白いとは思えなくなる。その作品を冷静に分析する読み方も存在するが、それは作品を楽しもうという立場ではなく、作品から何かの論理を読み取りたいと思うときである。その作品を楽しみたいときは、どうしても登場人物と自分を重ねないわけにはいかない。 このような体験を、僕は感情移入と言うことで捉えていたのだが、よく反省してみると三浦さんが言うように観念的な自己分裂と読んだ方が理解が深まるだろうと思った。感情移入というと、どうしても芸術鑑賞の時のように激しい感情の動きがないとそう呼べないような感じがしてくるが、観念的な自己分裂と呼べば、ほとんど全ての想像の時にそう呼ぶことが出来、普遍的で汎用性のある用語になるからだ。 三浦さんの素晴らしいところは、このように誰でも気づくような現象に、もっともふさわしい表現を与えたことではないかと思う。その表現を与えることによって、理論的な取り扱いが深まっていると思う。そこが素晴らしい業績ではないかと思う。 シカゴ・ブルースさんはこの現象の表現として、「二つの主観」という言葉を紹介しているが、これでは一人の人間が同時にそれを持つというニュアンスが薄れてしまう。「自己分裂」という「自己」に重さがかかる表現の方が、やはりこの現象にふさわしい感じがする。 「二重霊魂」という言い方は、同一の個人の霊魂が二重になっているというニュアンスを少し感じるが、霊魂という言葉には、人間の物質的な身体を離れていってしまうという感じが浮かんでくるので、対立物を背負っているという感じは薄れてくる。やはり「自己分裂」という自分が二つになっているという感じの表現の方がふさわしいと思う。 この「自己分裂」という表現を、教育の観点から同じ現象を語ったのが、仮説実験授業研究会の徳島の元小学校教諭・新居信正さんだ。それは「ノーミソの目」という言葉を使って、自己分裂した自分が「ノーミソの目」で対象を見るというような表現を使った。教育という場面で考えるには、「自己分裂」という言葉よりも、「ノーミソの目」という言葉の方がより豊かな発想を与えてくれるように僕は感じた。 現実の自分の目では、対象の表面しか見えない。その裏を直接見ることは出来ないのだ。裏を見たければ、実際に裏に回って現実の目に映像が映るようにしなければならない。しかし、ノーミソの目を使えば、その対象の裏側を想像することが出来る。経験から想像してもいいし、影が映っているとか、裏にいる誰かに言葉で情報をもらうとかして想像してもいいだろう。それは現実の目では見ていないが、ノーミソの目で見ているというふうに考えられる。 教育において教える知識というのは、実はほとんどがこの「ノーミソの目」で見えるものを教えることだと言ってもいいかも知れない。教師が「ノーミソの目」で見ているものを、生徒の「ノーミソの目」で見えるように教えるのが教育だと言えると思う。 また物事を深く理解する上でも、「ノーミソの目」を意識して対象を見ることは大切なことだ。そして、「ノーミソの目」で見ているときは、いつでも「観念的な自己分裂」をしていると自覚することも大切だ。 昨日論じた「北朝鮮」の問題にしても、現実に自分に見えているものだけで考えてしまうと、対象が複雑なときは間違った結論を出すだろうと思う。現実に我々に見えているものは、「拉致」される何の理由もない人が、犯罪行為によって「北朝鮮」に連れ去られ、不当に拘束されてきたという姿だ。 これが、見たままの姿が現実にもその通りだとしたら、単純に問題は解決するだろう。「北朝鮮」の関係者によって引き起こされた犯罪はケシカランことであり、それは謝罪と処罰・償いがなされるべきものになる。しかし、それが単純に行われないと言うことは、実は現実の目に見えること以上の何かがそこにあるということを意味する。それを「ノーミソの目」で見ない限り、この問題の本当の理解は出来ないと言うことになるだろう。 この「ノーミソの目」で見ることは、自分の目ではない他人の目で物事を眺めると言うことも意味する。「北朝鮮」の側の目で物事を眺めたらどう見えるか、ということを考えることも大切だ。これは、「北朝鮮」がケシカランという感情を抱いている人にとっては、実に難しい感情移入になる。どうしても、「北朝鮮」の側が他人になってしまうだろうから。「自己」分裂にならないのだ。しかしそれが出来なければ、やはり本当のところを理解するのは難しいだろう。 「観念的な自己分裂」のもう一つの表現としてもう一つ見つけたのは、宮台真司氏の「連載・社会学入門 連載第九回 予期とは何か?」の中の「「もう一人の私」から拡がる予期的構造化」という文章だ。「もう一人の私」というのが、まさに「観念的な自己分裂」を指すものだと言える。 人間というのは、それぞれの個性に応じて違うアプローチの仕方をするものだが、正しい結論に至れば、ほとんど同じことを語るものだというのは良く感じるところだ。三浦さんと宮台氏にもそれを感じた。「もう一人の私」を利用して、「体験地平の拡大」をするのは、他人の「ノーミソの目」を使って自分の認識を高める仮説実験授業の方法に通じるものだ。 現実の目は、哲学的な懐疑論によって否定されることが多い。錯覚を起こすからだ。しかし、本当は大部分は信用出来るのである。時に、難しい問題を扱うときに錯覚を起こすこともあるが、それは対象が難しいから錯覚を起こすのであって、対象の難しさを自覚しているときは、常に錯覚を疑う自覚も持たなければならない。だが、だからといってすべての対象に対して錯覚を起こすのだと反対の極端に振れるような判断をしてはいけない。錯覚を起こすこともあれば正しく見られるときもある。その条件を良く吟味しなければならないと考えなければならないだろう。 同じように「ノーミソの目」も正しく見られるときもあれば錯覚を起こすときもある。他人の情報を信じすぎて錯覚することもあるだろうし、疑いすぎて錯覚することもあるだろう。「ノーミソの目」の錯覚で特に注意しなければならないのは、内田樹さんが『寝ながら学べる構造主義』の中でフロイトを語ったところで指摘した「構造的無知」というものだろう。 これは、自分にとって不快感を起こさせるものは、無意識のうちに見えないようにしてしまうという「ノーミソの目」をふさぐ効果を持つものだ。見なければならないものを見えなくするのだから、これは錯覚という間違いにつながってくる。「北朝鮮」という国にまともな論理的行動があるはずがないと思っている人間は、そこを見ようとしない、というより、見えてこなくなってしまうだろう。そうすると論理的な理解は難しい。とにかく「北朝鮮」は理解出来ないケシカランことをしているとしか見えなくなる。 だが、人間の行動において、まったく理解出来ない非論理的なことは極めて少ない。どんなに、現実の目で見て非論理的でおかしい行動に見えても、そこには論理的な整合性を見つけることが出来るつながりを発見出来るものだ。そういう「ノーミソの目」で見なければ物事の本当の理解は出来ないだろう。 小泉さんが語ることの内容がどんなに非論理的であろうとも、小泉さんがある場面である言葉を語ることには論理的な整合性を見つけることが出来る。そういう「ノーミソの目」で物事を見ることが必要だろう。 「ノーミソの目」で見たもので、論理というメガネをかけて見たものはかなりの信用が出来ると僕は思っている。普通の目は、メガネがない状態が目がいい状態になるが、「ノーミソの目」に限っては、普通の状態では何も見えないところが、いいメガネをかけると、急に見えてくるものが広がってくることになるだろう。「ノーミソの目」をよく見えるようにするメガネをたくさん持つことも、「ノーミソの目」にとって大事なことだと思う。 世界一般を見るには「論理のメガネ」、社会一般を見るには「システムのメガネ」が役に立つのではないかと思う。
by ksyuumei
| 2006-02-11 15:01
| 哲学一般
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