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「北朝鮮」問題を考える

楽天仲間のジョンリーフッカーさんから重い宿題を受け取った。「北朝鮮の拉致問題について思う」という日記で語られている拉致問題に関連したものだ。この問題を考察することに、僕はある種の危うさを感じているので、重い問題だなあという感じがしている。

この問題を考えることの危うさは、イデオロギー的な問題が強くて誤解をされると言うことだけではない。確かなことが何も分かっていないので、ほとんど憶測で語ることしかできないということがある。その判断がすべて間違っているという可能性もある。また、いろいろな問題が複雑に絡み合っているので、それを解きほぐして理解するのも難しい。

拉致というのは犯罪であることは間違いない。だから、その犯罪性を非難してすむのなら何も迷うことはないのだが、ライブドア問題と同じように、それは犯罪性を非難して気分的にすっきりするだけではすまない問題であるように僕は感じる。その歴史的背景などを考えて語ると、犯罪性を薄めて「北朝鮮」を擁護しているのではないかという誤解を受ける恐れもある。ライブドアが生まれてきた背景を語ることで、ライブドアの犯罪性を薄めているように感じるのと同じだ。



ライブドア問題に関しては、山根さん・上村さん・神保氏・宮台氏という導き手がいたのでその背景を理解する助けになった。しかし、「北朝鮮」問題に関してはそのような導きてもすぐには見つからない。自分で手探りで考えていかなければならないと言うことにまた難しさを感じるのだが、ライブドア問題を考えた手法で、論理的に展開出来る部分で「北朝鮮」問題というのを捉えてみようかと思う。

その論理の出発点になるのは、「拉致」はあくまでも犯罪行為であるということだ。この犯罪性は免除することは出来ない。その上で、このような犯罪が生まれてきた背景を論理的に理解するように努め、被害者の立場でもっとも望ましい解決の方向がどういうものであるかを考えてみたいと思う。

「拉致」の背景のキーワードとして僕に浮かんできたのは「冷戦」というものだ。「拉致」被害の発生した時代というのは、朝鮮戦争後の、冷戦がもっとも深刻だった時代ではなかっただろうか。この「冷戦」というものは、僕には深刻な体験がないのだが、出来る限りそれが実感出来るように想像力を働かせてみようと思う。

「冷戦」というのは実際に武力を用いて戦争を行ったのではなく、イデオロギーの対立が戦争のように強い憎悪と恐怖を与えた時代のものだったのではないかと思う。アメリカを代表とする自由主義(資本主義)の側は共産主義を恐れ、ソビエトを代表とする共産主義の側も自由主義(資本主義)を恐れていたのではないかと思う。その恐れ方は、相手を悪魔のようにイメージし、自分たちを虐殺するような恐ろしい対立を感じていたようだ。

僕は、共産主義の間違いはプロレタリアート独裁に集約されると考えていたのだが、宮台氏の社会学などを学んでいると、経済構造を土台として考えて、その土台の上に精神構造も築かれるとする基本的な発想にも間違いがあるのではないかと思うようになった。人間の精神というのはそういう単純なものではないだろうと思うからだ。経済的土台は影響は与えるが決定的では無いという理解が必要だと思う。

もし精神構造がそのようなものだったら、そこに自由を生かす余地はなくなる。自由は、違う経済的土台を持っている人間の横暴を許すものにしかならない。どんなに観念の世界で正しいことを考えようと、ブルジョア階級から出てきたものは、結局は民衆の敵だと言うことで断罪されかねない。毛沢東の文化大革命の間違いも、毛沢東自身の責任もあったかも知れないが、共産主義の根本がそのような間違いを生む可能性をはらんでいたのではないかと思う。だから、毛沢東だけでなく、共産主義を標榜する国は多かれ少なかれ文化大革命的なことをしたのではないかとも考えられる。

これは自由主義にとっては大きな恐怖だ。自由主義は、実質的・物理的な被害が及ばなければ、何を考えてもそれは自由だという精神の自由を基本にする。それがなければ、失敗から学ぶことも出来ず、進歩と言うことが無くなってしまう。共産主義国家の経済が行き詰まり、ほとんど進歩から取り残されたのは、大部分がこの自由がなかったせいだろうと僕は思っている。

自由主義陣営の側のアメリカが共産主義に感じた恐怖は、今のイラクに対する恐怖とは比べものにならないくらい大きかったのではないかと想像出来る。それこそ、共産主義が世界を席巻してしまえば、アメリカは国家としての存続さえ危ういと感じていたのではないだろうか。そのような恐怖が背景になっての冷戦だと考えると、当時の「北朝鮮」の位置づけと、その防衛線としての日本という位置づけが、「拉致」の背景として浮かんでくる。

アメリカが共産主義に対して大きな恐怖を抱いていれば、それに対する憎悪と敵意も大きなものになるだろう。共産主義を膨張させようとする「北朝鮮」に対して、スキあればそれを国家としても壊滅させようと考えるかも知れない。「北朝鮮」の側も、同じように大きな恐怖と敵意を抱いたであろうことも想像出来る。

このような状況の中で国家が選んだ戦略は、互いにスパイ合戦をすることだったのではないだろうか。そのスパイ活動の過程で「拉致」が起きたのではないかと僕は想像する。「拉致」した日本人をイデオロギー的に改造出来れば、直接スパイとして活動させることもあったかも知れないが、大部分は、日本語の指導をさせたり、日本の生活習慣などを教える人間として活動させていたように報道されていたのではないだろうか。

「北朝鮮」は日本との国交はもちろん無かったし、もっとも新しい情報を入手するのは難しかったに違いない。だから、それを入手するためにも、日本人の誰かを「拉致」して情報を入手しようとしたのではないだろうか。これは、「北朝鮮」を擁護するのではないが、そのような背景があったので「拉致」という犯罪にもあえて手を染めたと考える方が、論理的には整合性が取れると感じるのだ。

気の毒なことだとは思うが、「拉致」された人には、その人でなければならなかった必然性は薄かったと思う。ある意味では誰でも良かったので、その時に遭遇した人が不運にも「拉致」という被害にあったのではないかと思う。

「拉致」被害者とその家族にとっては、正しい情報が開示され、出来るならば被害者が帰ってくるのがもっとも望ましい解決だ。加害者にはしかるべき償いをさせると言うことも、犯罪行為には必要だろう。しかし、今回の交渉を見ても、その解決の可能性は薄いと感じざるを得ない。これは、日本の外交が稚拙なのか、「北朝鮮」という国がケシカラン国なのかは判断が難しいところだ。

ただ、「北朝鮮」がケシカランと言うことだけを主張していても、交渉は少しも発展はしないだろう。相手がいくらケシカラン国であっても、外交的手腕で日本の利益を引き出すのが、外交に携わる専門家の責任ではないかと思う。基本的な戦略というものを見直す必要があるのではないだろうか。

そういう意味では、昨今の制裁やむなしという強硬路線は、稚拙な外交をますます稚拙にするだけのようにも感じる。もし、制裁をやって少しも効果がないことが明らかになってしまうと、日本にはもはや何のカードも残っていないことになる。制裁というのは、ちらつかせて効果を持つときが一番交渉カードとしては強いのではないかと思う。これを実際に切ってしまえば、それはもはや最後の手段ではないかという感じがする。

これは「北朝鮮」の核カードについても言える。核カードはちらつかせることに効力があるのであって、それを実際に切ってしまえば「北朝鮮」は終わりだと思う。日本の制裁カードもそういうものではないのだろうか。今それを切るのはタイミングが悪すぎるのではないかと思う。ちらつかせてもそれほど効果が出たとは思えないからだ。

「北朝鮮」が、「拉致」という犯罪を認めないのはケシカランという考え方もあるが、これを認めないのは、「拉致」が犯罪であることを自覚しているからではないだろうか。それが犯罪ではなく、当時の状況としては仕方のないことであるとか、それくらいのことをする権利があると開き直るのであれば、国家が「拉致」をしたことを認めるのではないだろうか。

それを認めずに、国家の中の暴走した個人が起こした犯罪であるとする立場は、犯罪であるということは認めていると考えられるのではないだろうか。そうであるなら、「北朝鮮」という国家を断罪することはあきらめて、その個人の犯罪としてまずは断罪することを考えて、「拉致」の解決の進展を図るということも考えられるのではないだろうか。

「北朝鮮」という国家に「拉致」という犯罪を認めさせて、ある意味では相手を屈服させてから「拉致」問題の解決を図るという方向は、果たして外交的に成功するだろうか。複雑な歴史的背景を持った相手を、単純に屈服させると言うことが出来るだろうか。

宮台真司氏は「手打ち」という言葉をよく使うが、「拉致」問題の解決は、ある種の「手打ち」という方向を見つけなければ、まったく進展しないのではないだろうか。日本もある面を我慢するから、「北朝鮮」も一定の妥協をするようにさせて「手打ち」をすることが必要なのではないだろうか。そして、お互いに利益となる点を見出すことが大事なのではないだろうか。

しかし、今の状況は「手打ち」をするには日本の世論があまりにも吹き上がりすぎているのを僕は感じる。これはマスコミが大衆に媚びる報道をしすぎるせいだろうと思う。一定の譲歩をして相手と妥協するのは、その譲歩の内容を理解しなければ、気分がすっきりしないことは確かだ。単純に、相手を倒せと叫んでいた方が、それが出来なくても気分はすっきりするだろう。マスコミは、そういう大衆の気分を煽っていた方が記事が売れるから、単に金儲けをしたいだけの宣伝機関に成り下がったマスコミとしては、当然そういう報道になるだろう。

日本政府が制裁に踏み切れないのは、それは日本だけの判断では出来ないからだろうと思う。まずは、アメリカがそれを望むかと言うことが最大の問題だが、中国の意向も複雑に絡んでくるに違いない。日本が制裁をしても、中国が助けるようなら、日本の制裁は何の効果も持たない。むしろ、日本が制裁をしたいと思ったら、中国はその外交カードで日本に対して大きな影響力を持つという結果にもなる。靖国問題どころの話ではなくなるだろう。

ジョンリーフッカーさんは、「北朝鮮」に対して「「理屈ばっか」こねている」と非難しているが、逆に言うと日本の方はまったく理屈を考えていないところに間違いがあるような気がする。日本の方は、マスコミの扇情的な報道など信じずに、まずは理屈をこね回して「拉致」問題の背景となる歴史を学ぶ必要があるのではないかと感じる。今考えられるのはそこまでだろうか。
by ksyuumei | 2006-02-10 09:42 | 政治


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