ライブドア問題再考 7

ライブドア問題を考える上での違う視点というのはまだ残っている。その一つはマスコミの報道の問題だ。これは、構造的には、マル激で何度も取り上げられている問題で、かつてのロス疑惑報道、和歌山カレー事件の報道などでも、神保・宮台両氏は問題点を指摘していた。

ライブドア及び堀江氏に関しては、その行為に違法性や犯罪性がある疑いは濃い。しかし、それはまだ決定した事実ではなく、あくまでも疑いの段階だ。この段階で、あたかも疑いが事実であるかのように断定した報道は、「推定無罪」という原則に反すると言うことだ。

「推定無罪」という原則が守られているかどうかは、その社会が成熟した民主主義社会であるかどうかのバロメーターだ。日本では、この原則は、原則であることさえ自覚されていないように感じる。だから、日本社会は未熟きわまりないと言えるだろう。



ただ勘違いしてはならないのは、「推定無罪」だからといって報道をしてはいけないということではないと言うことだ。「疑い」を「疑い」として正しく報道するという原則を守ることが大切で、「疑い」に過ぎないものを事実と断定することに問題がある。

今週配信されたマル激には、社民党の保坂展人氏のインタビューがあったが、保坂氏は、堀江氏が「(拘置所内で)インターネットは出来ないの?」と聞いたと言うことに関して次のようなコメントを語っていた。堀江氏のこの言葉に対して、テレビのコメンテーターの多くは「勘違いするな」というようなコメントを語っていたようだが、それこそ彼らの「勘違い」ではないかと保坂氏は言っていた。

刑が確定し、服役することが決まった既決囚であれば、ある程度の自由の制限は罪の償いという観点から言って仕方がないとも言えるが、まだ犯罪性が証明されていない未決囚である立場で同じような扱いをするのは不当な人権抑圧ではないかというのだ。無罪である可能性がある間は、基本的人権は守られるべきだというのが「推定無罪」の原則ではないかということだ。

逮捕されたことをもってすでに犯罪が確定したかのごとく報道するマスコミの問題は、ライブドアや堀江氏に違法性や犯罪性の疑いがあったということ以上に重大な問題であるかも知れない。これは、結果的に違法性や犯罪性が証明されれば免罪されるというものではない。マスコミが、日本の民主主義の民度を落としている責任があることを自覚しなければならないと思う。

もしライブドアや堀江氏の違法性・犯罪性を証明したいのなら、山根氏のように確かな事実(山根氏はライブドア自身が発表した情報を基に分析していた)から論証する必要があるだろう。マスコミのように、警察発表をそのまま正しいものとして垂れ流すのは、ジャーナリズム精神に反するものだ。警察発表にどれだけの信憑性があるのかを、マスコミ自身が検証しなければ、本当の意味でのジャーナリズムとは言えない。

かつて本多勝一さんは、犯人の言い分も聞くべきだと言うことを語っていた。警察側の言い分だけでなく、捉えられた方の人間の言い分も同じように扱って報道することが正しいという主張だった。それが、まだ事実が確定していないときの報道だと言うことだ。必要な情報をすべて開示して、判断は、その情報を受け取る側にゆだねるというのが、正しいジャーナリズムだろうということだ。

神保・宮台両氏のマル激はそのような報道姿勢を持っている。マスコミで一方的に叩かれていた鈴木宗男氏を招いてその言い分をすべて聞いたのも、鈴木氏を擁護するために聞いたのではなく、その情報を受け取った上で判断すべきだと考えたからだろうと思う。それこそが真のジャーナリズムと言うことになるだろう。

マスコミが、山根氏のような詳細な分析をしないのは、それが売れる記事にならないからだろうと思う。山根氏のような分析は見事なものだが、それを理解するのはとても難しい。よく考えなければなかなかその正しさが分からないものだ。専門的な部分では僕もよく分からないところがたくさんある。

それに対して、ライブドアや堀江氏が、こんな悪いことをしていたと扇情的に語るのは人々の目を引くことになり、テレビで言えば視聴率が稼げると言うことになるだろう。安心して叩ける人間がいると、日本社会のいじめ体質が満足されて、その攻撃性でストレスを解消出来たりすることもあるだろう。テレビは、基本的にそのような報道姿勢を持っているから、テレビが語ることはほとんどすべて疑ってかからなければならないと思うが、すっきりしたいと思っている人間はそう自覚することは出来ないだろう。

新聞などの文章の報道は、テレビよりはまだましだとは言え、それでも一方的な情報の垂れ流しというのは強く感じる。ヤフーの一般的なニュースでもそのような観点からの批判が出来る。「<ライブドア>堀江前社長の直接関与、初の物証メールを押収」というニュースの中にも次のような文章が見られる。


「逮捕容疑となったマネーライフ買収に関し、堀江前社長の直接関与を示す物証が明らかになったのは初めて。東京地検特捜部は既にこのメールを押収した模様だ。」


これは、正しくは、「物象になる可能性のあるメールを押収した」と報道すべきだろう。この時点で、このメールの証拠としての価値が決まったわけではないのである。証拠としての価値は、あくまでも裁判で争われる事実ではないのか。地検特捜部がそれを押収した時点で、すでに証拠として確定してしまうのだろうか。

それが「物証」として「明らかになった」という合理的な判断はどこからなされているのか。単にそう言う発表があったというだけのことではないのか。また、このニュースは、


「特捜部は、この原案作成にかかわった堀江前社長が、公表が虚偽であることを認識していたとみて追及している。」

「関係者によると、堀江前社長は、この原案に目を通したうえで▽マネーライフに税務上の問題が発覚した▽マネーライフが重要な情報を隠していた――などの場合、どう対処するかについて、4カ所以上にわたって加筆するよう求めた電子メールを、買収交渉を担当していたライブドア関係者に送信していた。」


という報道もしているが、これは、特捜部の言い分であり、「関係者」というのも、堀江氏の側の言い分を語る「関係者」ではない。一方的な情報が垂れ流されているのだ。それでも、この記事は最後に


「堀江前社長のメールは、こうした工作を直接指示するものではないが、契約書の原案作成にかかわったことが裏付けられたことで、公表の事実が虚偽だったことを把握していた疑いが強まった。」


と語っていて、このメールが「直接指示するものではない」と言うことを付け加えているだけテレビよりはましかも知れない。だが、「契約書の原案作成にかかわったことが裏付けられたことで、公表の事実が虚偽だったことを把握していた」と言うことの細かい分析はどこにもない。おそらく他の記事でもそれを分析しているものは無いだろう。それは、論理的に自明なことなのだろうか。分析するまでもなく、そうだと分かることなのだろうか。

記事を書く人間が、本当のところが分かっていなくて、細かい解説が書けないのか、どうせ書いても読者には分からないと思っているから、書くことによってアンポピュラーになることを避けたのか、どちらかではないかという気がしてしまう。神保氏によれば、マスコミの大衆蔑視の態度というのはすごいものがあるそうだ。大衆にはどうせ難しいことは分からないから、考えることは自分たちがやって、その結果だけ伝えればいいと考えているマスコミ報道者が多いらしい。

僕が、神保・宮台両氏のマル激を信頼するのは、視聴者に納得がいくように、本質が分かるように報道しようとするその姿勢を感じるからだ。マスコミにはその姿勢をまったく感じない。大本営発表のような一方的な情報を垂れ流すだけだとしか思えない。

僕は食事の時にテレビのニュースを見ることが多いが、その時は情報を手に入れようとして見るのではない。信頼出来る人間が発する情報と、マスコミが発する情報にどれくらい食い違いがあるかを見るためにテレビのニュースを見ている。昨年から新聞も取らなくなった。これも、新聞にはもはや読むだけの価値がないと思ったからだ。新聞が書いている程度のことならすべてインターネットで入手出来ると思っている。

マスコミ報道の問題は、ライブドア問題とは独立して考えるべき大きな問題だろうと思う。それも複雑に絡み合っているので、ライブドア問題はますます難しくなる。マスコミ報道と絡めてしまうと、そちらの方の問題の方が大きすぎて、相対的にライブドア自身の問題が薄まってしまうと言うことも出てくる。どの問題を考えているかで、存在の重さが違ってしまうので、問題の設定条件を意識することは大事だろう。

いずれにしても、マスコミを信じすぎないことと、その報道を気分をすっきりさせるために使うと言うことをやめることが大事だろうと思う。もやもやした気分に耐えられる免疫性をつけなければならないと思う。
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by ksyuumei | 2006-02-09 09:37 | 社会


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