ライブドア問題再考 6

ライブドア問題の難しさは、それがさまざまな視点から深く捉えられると言うことだろうと思う。かつて堀江氏が英雄のようにマスコミに登場したときは、その違法性や犯罪性はかけらほども考えられていなかった。しかし、これを深く考えてみると、山根氏が指摘するように、そのころからすでに違法性や犯罪性があったと考えられる。

しかし、ライブドアや堀江氏が悪かったと言うことを確認しただけでは、この問題は終わらない。悪かったにもかかわらず、なぜそうとらえることが出来なかったかという問題もまた深く考えることが出来るからだ。その一つの理由は、堀江氏に「壊し屋」としての積極面があり、この面では高く評価出来るという現実もあったのではないかと思われる。

一方では高く評価され、一方では反対に低く評価されるというのは、正反対の対立した評価だが、これが両立すると言うことが問題を難しくしている。形式論理的に考えれば正反対の出来事は両立しないのだが、これは視点が違うという条件を付与すると両立可能になる。そういうものが弁証法論理だと思うのだが、この問題は弁証法的に捉えないとならないというのも難しい点だろうと思う。



視点の違いから生ずる評価としては、システムあるいは構造という視点から、このライブドア問題を捉えるという見方もある。これは、ライブドアが犯した犯罪的な行為というものを、その具体性を捨象して一般的な面を抽象した視点として捉えるという見方だ。事件を起こしたのはたまたまライブドアだったが、現実の条件の下では、ライブドアがなかったとしても、同じような行為を犯す会社が必然的に出てくるような構造がないかどうかを考えるという視点だ。

システムや構造を考えると言うことは、一見ライブドアの責任を薄めるような印象を受けるかも知れない。実際、本来は別の個所が責任を負うべきではないかと言うことがシステムを考えていると出てくる。これは、責任を薄めるのではなく、本当は責任の所在がより明確になることだと僕は思う。そして、責任の所在が明確になれば、将来同じような行為が起こるのを防ぐことも出来るのではないかと思う。

そういう考察は専門家にまかせておけばいいと考える人もいるかも知れないが、民主主義社会というのは、そういうものこそ市民のチェックがなければ、頭のいいやつのやりたい放題になるということを歴史が教えているのではないかと思う。市民として、この問題が正しくチェック出来るように考えることは、民主主義制度を支えるという点で大事だと思う。もし、このような市民感覚を持つ人間が少なかったら、民主主義は容易に衆愚政治に堕落してしまうだろう。

そのシステムという面を深く考えさせてくれるのは、またまた神保哲生・宮台真司両氏の「マル激トーク・オン・デマンド 第252回[2006年1月28日] ライブドア事件が問う「日本は本当にアメリカ型の市場システムでいいのか?!」 ゲスト:上村達男氏(早稲田大学法学部教授)」だ。ここで語られているのは、ライブドアという個別な問題に限られず、日本の株式会社の問題と証券市場の問題だ。それが広い範囲で語られている。

印象的だったのは、ライブドアという存在が生まれてきた必然性は、政策的な規制緩和路線というものにあるという判断だった。それは健全な資本主義の発達のためというよりも、経済復興が目的の、いわば病気治療的な対処療法として提出されたものが、薬が効きすぎて毒になってしまった結果だと考えられていたことだった。

ライブドアのような行為は、ライブドアでなくても、堀江氏と同じくらい頭のいい人間だったら、規制緩和という条件の下で最大限の利益をあげようとしたとき、きっと同じように考えつくことなのではないかと思った。なぜなら、堀江氏はそのやり方で成功を続けており、少なくとも少し前までは、誰もそれが違法だとも犯罪的だとも思っていなかったからだ。

システム・構造的には規制緩和路線というものがライブドア問題には深く関わっている。しかし、だからといって規制緩和路線がすべてだめだという結論を出すのは、形式論理に偏りすぎた判断だろう。そうすれば、規制緩和に反対する旧勢力が、今度は旧勢力としての談合や独占という腐敗を復活させることだろう。これを、システム的・構造的に理解するとは、規制緩和路線のどの面がまずかったのかを知ることだろう。どの面が、薬を毒にしてしまい、毒を含んだライブドアという存在をふくらませていったのかを知ることが大事だろうと思う。

この回のマル激のゲストである上村達男さんの著書に『会社法改革』(岩波書店)というものがあるが、これは、2002年に最初の版が出版されたものであるのに、現在の姿を言い当てているような所を随所に感じる。専門的な知識を羅列してあるだけではなく、優れて啓蒙的な書物でもあると感じる。

上村さんは、会社というものが本来どういうものであるべきかということに多くの言葉を費やしている。会社というものは、我々が働く場として、そこにあるのが当然のものとして捉えているが、今の姿が本来あるべき姿として当然あるのではなく、長い歴史を経て獲得した人間の考え方から、どういうものが本当の会社としてふさわしいかという議論を展開している。目から鱗が落ちるというような感じでこれを読むことが出来た。

宮台氏は、上村さんの文章を、実に論理展開がクリアーだと評していたが、まったくその通りだと思う。これは、書名からすると専門的な知識がないと読めない感じを受けてしまうが、啓蒙的な部分は非常にわかりやすい。例えば、「法人」を語るときの切り口は次のようなものだ。


「日本ではゴルフクラブに法人会員というのがあり、これが会員権を著しく高めている。法人がゴルフクラブの会員であるから、ゴルフをやっているのは法人なのであり、実際にプレーをしているのは法人の一細胞である。アスレチッククラブにも法人会員があり、法人が器械体操をしたり泳いだりしている。」


これは、法人という具体的な人間ではないものが、ゴルフをしたりするのはおかしいのではないかという疑問だ。これは、法人会員というものが当たり前の存在であるときは、そのような疑問を提出することが、まさに目から鱗が落ちるということになる。さらに、


「法人を尊敬して、ご丁寧に相手の会社を「御社」などと敬語を使って呼んでいる。御社とか貴社とか、人ではなく法人を尊敬するのも日本人ならではである。逆に会社員が対外的に自社の幹部や従業員の名前を呼ぶ際には、社長といえども「うちの××が」という具合に呼び捨てである。社長が従業員を呼び捨てなどあまりに当然のことである。テレビのニュース番組で、キャスターが同僚の女性を呼び捨てにしていることがあるが、実に見苦しい。会社に尊敬語を使って、自社内の個人に対しては「××さん」とも言わない。細胞同士に尊称などいらない。こうした発想を乗り越えなければ、本物のリベラリズムではないのであるが、キャスターの口から出る言葉はリベラルっぽい。」

という疑問なども、僕も感じていたものの、ごく当たり前に行われているものだから、疑問を感じる方がおかしいのだろうかという感じさえ抱かされてしまいかねないと思っていた。それを、こう明確に言い切ってもらうと、この言葉に共感すると共に、自分への励ましの言葉としても感じられるから嬉しくなる。

本来なら個人への尊敬が発展して、その個人が所属する会社への尊敬につながっていかなければならないのだが、個人はどうでも良くて会社への尊敬だけがあるという状況のおかしさを感じなければならない。会社は人のためにあるのであって、人が会社のためにあるのでは無いというのが、市民社会の基本でなければならないという啓蒙を語っているのだと思う。

会社の持っている莫大な富や、そのトップに立つ人間の強大な権力については次のような言葉がある。


「50階建ての本社ビルの社長室に座ってみると、何でこんなに権力があるのだろうと驚くほどの富を管理し支配することになるが、それは長年にわたる先人の努力の蓄積と、株式会社制度自身が有するメカニズム(株主有限責任制度と証券市場)のためである。」


富や権力を手にしているのは、「長年にわたる先人の努力の蓄積」であって、決して自分が頭が良くて優秀だからと言うのではない。このことを忘れるところに、何をしても自分の勝手だというおごりが出てくるのだろう。そして、


「しかしその時点で本来法人が物理的にできないはずのこと、運動や飲み食いという本来ヒトしかできないことを法人の名においてすれば、現実にはその会社ないし法人に「関わるヒト」が、「関わらないヒト」よりも著しくいい目を見る。法人が一枚かむことで、ヒトの間に著しい格差が生まれる。まさに会社の常識、世間の非常識である。これを許してはならないとして、血を流して獲得された個人の尊厳や人権思想、啓蒙思想は生きていない。日本の法人問題、会社問題は人権問題そのものなのである。」


という文章からは、日本の会社の問題が「人権問題」であるという鋭い指摘が、なるほどと納得出来るような論理展開で帰結されているのを感じる。日本のシステム・構造の問題は、会社というものを市民社会に位置づけるという視点を欠いて、会社が単なる富の源泉としてしか捉えられていなかったと言うところにあるのではないかというのを、上村さんの本を読むと感じる。

ライブドア問題を、会社というものは、本来は人のためにどのような存在でなければならないかということを考えるきっかけにしたいものである。それは、佐高信さんなどが以前から批判してきたことに通じる内容であり、市民感覚で批判してきた佐高さんと、会社法の専門家である上村さんの批判が一致すると言うところに、僕は両者の正しさを感じる。アプローチの仕方が違っても、正しい結論というものは同じものに達するからだ。システム・構造の面からもっと深くライブドア問題を捉えてみたいものだ。
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by ksyuumei | 2006-02-08 10:06 | 社会


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