イコールの矛盾

土曜日に面白そうな本を手に入れた。哲学者の野矢茂樹さんという人が書いた『同一性・変化・時間』(哲学書房)という題名の本だ。この題名が示しているどれも、最近関心が強い対象ばかりだ。「アキレスと亀」のパラドックスを考えるヒントになるかもしれないと思った。

書店でぱらぱらとめくっていると、最初の方に、哲学者がどのような思考でこの対象を考えるのかということが書かれているのに気がついた。この思考法が、僕にはわかりやすいと共に、哲学者的思考にすべて共感することは出来ないなという感想も持った。

同一性の問題は、「=(イコール・等号)」の問題でもある。エントリーの表題にしているのは、仮説実験授業の提唱者の板倉聖宣さんの『新哲学入門』(仮説社)のある章の表題になっているものだ。僕には、板倉さんの同一性のとらえ方の方が共感出来る。野矢さんの本はまだ最初の方を読んだだけなのだが、その問題意識の違いというものから、形式論理と弁証法論理の違いのようなものまでが頭に浮かんできた。



同一性の問題は、それを基礎にして変化を捉えることが出来、変化を捉えたことによって時間というものの本質もつかめそうな気がする。ゼノンは、形式論理を進めることによって、変化を捉えられなかったような気がするので、この3者の関係は、「アキレスと亀」のパラドックスには密接な関係があるように思う。ゼノンは、同一性から変化の認識に至る道が見つからなかったので運動を否定してしまったのではないかという感じがしてきた。それは、現実をあくまでも形式論理で捉えようとしたからではないかと感じる。そういうことを考えてみようと思う。

野矢さんは、「はじめに」の中で、


「同一であるものが、どうして変化しうるのか」
「変化するものが、どうしてなおも同一であり得るのか」


ということに論理的な説明を付けるという問題意識から出発しているようだ。「同一性」と「変化」というものを形式論理的に捉えると、これは排除し合う両立しないものになる。だから、「同一であるものが変化する」と言えば、形式論理的には矛盾になるだろうと思う。つまり、形式論理ではこれが両立することを認めない。

ギリシアの時代というのは、ユークリッドの『幾何学原論』が形式論理としての完成度の高さで群を抜いていた時代だったのではないかと思う。極端な形式論理信仰があったとしても不思議ではない。ゼノンが、現実には両立しているように見えるこの矛盾「変化している部分が認識出来るのに、それが同一だと言える」と言うことを、論理的に否定しようとしても、その思考の方向は理解出来る。形式論理の方が感覚よりも信頼出来るという基礎があったのではないかと思う。

しかし、形式論理信仰から逃れられれば、形式論理も、物事の一面を抽象して理解しただけに過ぎないと言うことが分かってくる。それは一面的な真理であるから、他面から眺めれば真理としての資格を失う。つまり、同一性の問題は、形式論理の限界を知らせてくれる問題として捉えることが正しいのではないかと思えてくる。

そのようなとらえ方が板倉さんのとらえ方であるように僕は感じる。だから、板倉さんの方に共感を感じるのだろう。板倉さんは、「=(イコール)」について二つの意味を考えることから出発する。それは、

  1 A=A
  2 A=B

という二つだ。形式論理は、本質的には1の場合しか同一性を認めない。同一であるということは、まさに「同じもの」というのが形式論理の理解の仕方だ。2の場合は、AとBという違うものが対象になっている。それなのに、それが同じ(同一)だというのは、形式論理的には矛盾している。それでも我々はこの等式を普通に使っている。これはどのような認識から来ているのだろうか。

形式論理の最たるものである数学では、集合が等しい(同じ)と言うことを、その要素が同じであるということから判断する。例えば、次の集合を考える。

  A={x:xは10以下の偶数}
  B={2,4,6,8,10}

これは、Aが内包的な表現(要素の内容を語っている)、Bが外延的な表現(具体的な要素を並べて書いてある)と呼ばれている。この両者は「表現」において違いがある。しかし、その要素を比べてみると、どちらも要素は「同じもの」が入っていることが分かる。だから集合としては同じで、

  A=B

という等式が成り立つ。この等式は、表現は違うけれど、集合として同じと言うことを意味している。違うけれど同じなのだ。等式には、このような矛盾が不可欠に結びついているという主張が板倉さんのものだ。板倉さんは次のように書いている。


「例えば、「A=A」という式を考えてみましょう。しかし、これは「AはAだ」というのですから、当たり前すぎてナンセンスです。だから、普通の数式は「A=B」といったものになっています。つまり、「違うものが等しい」というのが、イコールの生命でもあるのです。「AとBとは違うが、ある側面から見ると同じだ」というのが、「A=B」というわけです。例えば、「リンゴ1個=ミカン3個」というのは、「味が同じだ」とか「うまさが同じだ」という意味ではなく、「その価値が同じだから交換可能だ」ということを意味したりするわけです。そこで例えば、「原理的には、<リンゴ1個を生産するための労働時間の総和>と<ミカン3個を生産するための労働時間の総和>とが等しい」といった前提で、スムースな交換が成り立つわけです。哲学好きなマルクスはその『資本論』の中で、このイコールの意味について哲学的に「ああだ、こうだ」と論じて読者を混乱に陥れていますが、元々<イコール>というものは、「右辺と左辺が違っていて、しかも何か共通するものがあるとき」だけに用いられるものなのです。」


『資本論』の等式も、イコールの矛盾というメガネで受け取るときにはじめて理解出来る。特に重要なのは、「AとBとは違うが、ある側面から見ると同じだ」というとらえ方だ。つまり、同一性の問題は、ある側面を抽象することであり、他の側面を捨象することでもあるのだ。抽象と捨象の問題が同一性の本質でもあると思う。

だから、抽象と捨象が重ならない見方をしている人間同士では、そこに見る同一性も違うものになってくる。例えば、不毛な議論になることが多い「南京大虐殺」を巡る議論なども、殺人という行為面を、実際の物理的な行動面での同一性を論じる人と、どのような歴史的条件の下に、どのような社会的背景(日本の)で、条件付けられた兵士が起こす特殊な行動としての同一性を見る人とでは、等号で結ばれる対象が違ってくる。だから、結果として「虐殺だ」という同一性の肯定と、「虐殺でない」という同一性の否定は、相容れない対立として形式論理的な矛盾の関係を持つことになる。

これは、それぞれの側面の視点の条件を吟味することで、それぞれの主張が共に両立して正しいと言うことが起こりうることを理解しなければ、いつまでも不毛な議論が続くことになるだろう。

イコールという等式がもたらす同一性の問題は、あくまでも形式論理的な同一性なので、そこに変化という観点はない。ある側面は、まさに同一で同じものとして認められるというのがイコールの矛盾だ。集合同士の等式では、要素としてはまったく同一だったのでそこにイコールが成り立つ。これは、それまで等しくなかったものが変化して同一になったのではない。また、一度同一が確かめられたものは、変化して同一でなくなることはない。

視点が一致して同一性が確かめられれば、それは確立してしまって変化はしないのだ。それが形式論理というものだと僕は捉えている。だから、形式論理で変化を表現することは出来ない。変化の結果を静的に捉えて、そこだけを時間的に切り離して表現するのが形式論理だと思っている。

変化を捉えるには、形式論理を越えた弁証法論理が必要だ。そこが、この問題の難しさではないかと思う。同一性という形式論理が、どのようにして形式論理を越えて変化を捉えることが出来るのか。それが「アキレスと亀」のパラドックスの本当の解決でもあるだろう。

野矢さんの議論の展開は、哲学者らしく極めて厳密だ。このあたりの論理展開は、哲学を学ぶ意義の一つになりそうな気がする。同一性に関しても、「数的な同一性」と「質的な同一性」というものに分けて考えるという展開を示してくれている。これは、両者を区別することは、論理的に非常に厳密な吟味になると思う。

「数的な同一性」というのは、ものを一つ、二つと数えるときに、それが同じものとして数えられるという認識に通じる同一性だ。これは、一面からは同じだけれど、他面では違うという認識から得られる同一性のように思われる。つまり、形式論理的な同一性で、まさに、抽象によってまったく同じ、区別がつかないと認識された同一性だ。

これに対し、「質的な同一性」というのは、個体としての違いを前提とし、属性が同じというアナログ的な認識になっている。これも、ある視点から同じと見ているのではないかとも考えられるが、「数的な同一性」の方は、抽象を経て、抽象的対象にしてしまえば、まったく同じという同一性になってしまう。デジタル的な認識だ。しかし、この「質的同一性」は、似てはいるけれどまったく同じではないというアナログ性を感じる。

「数的な同一性」は名詞・形容詞的な認識のように感じる。「質的な同一性」は動詞的という感じだろうか。「質的な同一性」が後に変化というものを語るときに大事になってくるのではないかと感じる。まだ先を読んでいないので分からないが。

このようなこだわりは、物事を厳密に考えないとなかなかこだわろうとも思わないだろう。それを哲学者は教えてくれると思う。哲学を学ぶ意義というのは、そういう点にもあるのではないかと思う。
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by ksyuumei | 2006-02-06 10:00 | 論理


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