「運動」とは何か--「運動」の本質を求めて 3

「運動」の直接表現である「動詞」というものを考えてみたい。振り子の運動を考えるとき、鉛直方向の最下点の状況を考えると、そこに「ある」と静止的に捉えると矛盾を生じ、「通過する」と言えば少しも矛盾が生じないと言うことがあった。「運動」の動的属性をそのまま表現する「通過する」という言葉なら、運動を表現するときに矛盾が生じないと言うわけだ。

「ある」というのも動詞の一つなのだが、これは動詞でありながら静的属性を表現しているという特殊な動詞に感じる。だから、この特殊な動詞を考えるのは後回しにして、本当に動きがあると思える状況を表現している一般の動詞について考えてみようと思う。

三浦つとむさんは、動詞の本質を、変化する属性の表現として捉えた。何かが動いているように見える現象というのは、そこに必ず変化という属性を発見出来ると言うことだろうか。変化する何かが見つかると言うことだろうか。まずは人間が動作をする動詞で考えてみよう。



  歩く・走る・行く・帰る …… 位置の変化
  食べる・飲む …… 対象である食べ物の変化(消費)
  見る・聞く …… 対象からの情報の変化(認識の変化)
  話す …… 発話される音声の変化

このほかたくさんあるだろうが、現象の中に何らかの変化を発見出来そうだ。それでは、人間が動作をするのではなく、観察したものを表現する動詞はどうだろうか。

  落ちる・上がる・飛ぶ・転がる …… 位置の変化
  止まる …… 変化していた状態が変化(動かなくなる)
  晴れる …… 晴れでない状態から晴れになる(天気の変化)

「晴れ」というのは名詞であり、これは状態を固定的に捉えて表現している。つまりここには、変化という表現はない。これが「晴れる」という動詞になると、それ以前の状態が晴れではなかったという表現が含まれることになる。つまり、変化が表現されていると考えられる。

日本語では、変化という属性こそが動詞にふさわしいと言うことが言えそうだ。しかし、ここで困った問題がある。日本語で「好き」という言葉は動詞ではない。これは教科書文法では形容動詞に分類されている。形容詞に近い言葉として捉えられているようだ。しかし、英語では同じ意味を表現する言葉 like は動詞に分類されている。変化という属性が動詞の本質だというのは、日本語だけのものなのだろうか。

「好き」という言葉は、活用変化がないので動詞に分類されていないことは明らかだ。ということは、日本人は、この現象を変化としては捉えなかったことになる。確かに、「好き」という感情は、ある程度持続するもので、持続している間はそれに変化は認められない。その変化しない間を捉えて「好き」を動詞に分類しなかった可能性はある。

「好き」でない状態から「好き」な状態への変化は、「好きになる」という動詞で表現されたりする。また、自分の心理状態の変化を伴う表現になると、「好む」という動詞が使われたりする。僕は英語に詳しくないので分からないが、この変化する属性を捉えた意味が like の中に入っているなら、 like も変化する属性を含むことになり、動詞に分類されるというのが頷ける。英語でも変化する属性を動詞として捉えているのかなと思える。

さて、変化というものが動詞の本質だと考えると、静止状態の表現である「ある」という動詞が、なぜ動詞なのかという理由も納得出来る。それは、すべてのものは同じ状態で変化せずに存在し続けることが出来ないからだ。それは、人間がまったく手を加えなくても自然に朽ち果ててしまう。理由は分からないが何かが変化していることは確かなのだ。

存在することは、それだけで何らかの変化をもたらすのである。その変化を捉えると、存在を示す「ある」という言葉は動詞にならざるを得ない。今なら、それが分子レベルのミクロな動きが原因だと言うことが分かる。人間の目には、動いていることが見えないが、ミクロの世界では物はみな動いているのである。もちろん、昔の人はそのようなことを考えたのではなく、現象として、長い時間がたつと物が変化することを捉えて「ある」を動詞にしたのだろうと思う。

英語では、 am,are,is などの be 動詞と呼ばれるものが存在を表し、これも動詞として分類されている。存在が動詞として表現されるという日本語との共通項は、とても面白いものだと思う。人間が感じることが、ある程度の共通項があるのだなと確認するのは、真理というものの共通性を感じることでもあり面白いと思う。

さて、動詞の本質が変化という属性にあり、運動というものが動詞で表現されると言うことになれば、運動の本質も変化にあると考えていいのではないだろうか。運動というものが、物質の存在形態であり、運動しない物質というものが考えられないと言うことは、変化しない物質が考えられないと言うことでもあるのではないだろうか。

物質はすべて変化をする。それが弁証法的なとらえ方の有効性につながってくる。弁証法は、形式論理ではつかみきれない「変化」というものを捉える論理になるからだ。物事が、変化をしない静止だけであるなら、すべては形式論理で解明出来るだろうが、物事がすべて変化するものであるなら、形式論理は多くの間違いを犯すだろう。特に運動を形式論理で捉えようとすれば間違えるに違いない。ゼノンのパラドックスは、そのような間違いでもあるのではないか。

すべてが変化するのなら形式論理はまったく役に立たないのではないかと感じる人もいるかも知れない。しかし、変化は相対的に変化しないと解釈することも出来る。同じ速度で運動している二者は、方向も速さも同じだから、相対的に静止の位置にあると言っていい。地球上の、地球と比べて質量が著しく小さい物質はそのような、相対的な静止の位置にあるだろう。だから、大地が動いているとは感じない。このようなときは、静止を表現する形式論理でも正しい表現が出来る。

また、相対的に短い時間を設定すれば、その時間の範囲では変化をしないという現象もある。それは静止によって捉えられる。一般に、ある条件でマクロな変化が見られないものに対しては、ミクロ状態を無視出来ると考えると変化しないものとして考えられる。存在することは、マクロ状態での変化は一定の時間には見られない。それがたとえ分子レベルというミクロ状態で変化していたとしても。だからこれも形式論理で記述出来る。

変化というものをどう捉え・どう記述するかで、形式論理というものの有効性が決まってくる。ミクロな変化、あるいは連続的な変化というものを記述しようとすると、形式論理はそれを静止で捉えることが出来ずに、論理として無理な面を生じて矛盾が顔を出すのではないだろうか。

形式論理は、ある時点を静止的に捉えて、二つの現象を比べてそこに違いを発見したとき、そこには結果的に変化があったという記述をすることは出来る。マクロな変化の結果を記述することは出来る。それは、二つを独立に、それぞれを観察して表現することが出来るからだ。しかし、それは違っていると言うことが、変化の結果を表現しているのであって、変化そのものを表現していることにはならない。

形式論理では、その過程を表現することが出来ない。過程は、形式論理をつなげて想像するしかない。もし、変化の途中の一点を表現したとしても、それは過程ではなく、途中の一点を固定して表現しただけのものになる。つまり、それは過程という連続的認識ではなく、ある瞬間という断続的な一側面を表現しているだけだ。

瞬間はいくらたくさん並べても瞬間にしかならない。決して連続した過程にはならない。それが過程になるのは、無限に並べることが出来たときだが、この、瞬間を無限に並べると言うことは、形式論理には決してなしえない不可能なことなのではないかと思う。

動詞による表現というのは、運動の過程を表現したものになるのではないだろうか。それはおそらく弁証法的に理解することによって本質的な意味が伝わるのだと思う。それは、過程を捉えて表現しているので瞬間についてはよく分からないものとしているようにも思う。「通過する」と言ったときは、通過する瞬間については何も分からないことを意味しているのではないだろうか。その瞬間を語るには、それを固定的に捉えて形式論理で捉えないとならないのではないかと思う。

通過すると言うことを、数学的に厳密な意味で、点を通過するということで考えるのではなく、一定時間その場所にいたというようなとらえ方をすると、静止的な存在を語ることも出来る。現実の物質は、大きさのない数学的な点に存在することは出来ない。いつでもある一定の大きさを占める場所に存在しなければならない。この場合は、一定の条件の下に、そこに「いる」という表現をすることが出来る。そして、その時に形式論理は、この運動の瞬間というものを現実的に捉えて表現出来るのだと思う。

「アキレスと亀」のパラドックスにおいては、アキレスは無限の点を通過することになっているが、それが数学的に厳密な意味での点・すなわち大きさを持たない位置情報だけを持っている点であるなら、形式論理は、それをつなげて一定の大きさの長さを作ることが出来ない。無限は、いつまでも無限の彼方にあるだけだ。

しかし、この点が一定の大きさを持った現実的な点ならば、その点を通過する幅が縮まることによって、いつかはアキレスは亀に追いつき・追い越すことが現実的な結論になる。これは無限の思考を必要とせず、有限の幅の差を計算することで解決する。形式論理の範囲で解決が出来る。これが、「アキレスと亀」のパラドックスが、現実的には解決されると言うことの意味ではないだろうか。

「アキレスと亀」のパラドックスは、形式論理的思考においては間違いがなかったのではないか。しかし、それを現実の運動の記述にそのまま使ったことが間違いだったのではないか。現実の運動は、形式論理で記述することは出来ないのだと思う。板倉さんが指摘したように。
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by ksyuumei | 2006-01-28 10:46 | 論理


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