「運動」とは何か--「運動」の本質を求めて 2

物理学が「運動」そのものを表現しようとすると、どのような矛盾が表現に現れてくるかという問題を、板倉さんは『新哲学入門』(仮説社)の中で、振り子の運動を例に引いて説明している。これもちょっと長い引用だが、引用して考えてみようと思う。




「弁証法を論ずる人々は、これまでよく「運動は一つの矛盾である」といって、「<ここにあると同時にここにない>というのが運動だ」と説明してきました。その説明の仕方を聞いて、これまで「何となく納得できない」と思った人も少なくないことと思います。しかし、次のような例を出すと、その問題点が明らかになってくると思います。
 今、ア図のように、物体Wが紐に吊り下がっているとします。運動の力学でない「静止の力学=静力学」では、紐につり下げられた物体に働く力は、
  ①地球がその物体を引く引力(重力)と
  ②紐がその物体を引き止めようとする力
の二つの力で、「その二つの力は向きが反対で大きさが同じだ」と考えて、これに関する問題を解くことになります。
 そこで今度は、この物体Wをイ図のように、紐の付け根のO点を中心に振り子のように振動させることにします。その場合、物体WがちょうどO点の真下に来た瞬間tには、その物体Wにはどんな力が働いていると考えたらいいでしょう。
 この問題は、「その瞬間tには、その物体WはA点にある、静止している」と考えていいかどうかによって、答が変わってきます。もしも、「その瞬間には、確かにA点にあると言っていい」のなら、物体Wは、ア図と同じ条件にあるのですから、「答は、前の問題と同じ」ということになります。しかし、「瞬間たりとも<そのA点にある>と言ってはいけない」とすると、別のことを考えなければならなくなります。一体、どうなのでしょう。
 実は、物体Wが振り子のように振動してA点に来たとき、②の「紐が物体Wを引き止めようとする力」は、物体Wに働く重力よりも大きくなるのです。その証拠に、ただ物体Wを吊り下げただけのときには切れない紐でも、物体Wを振動させると切れることがあります。だから、「そうも考えられる」だけでなく、「そう考えなければならない」のです(物体Wに働く力は、釣り合っているのではなく、上向きの力の方が大きいから、上向きにカーブして振動するわけです)。
 このことは、「物体Wはある瞬間たりとも<A点に存在する>と考えてはいけない」ということを意味しています。もし、その瞬間に本当にA点に存在していたのなら、前の論理が通用するはずだからです。それなら、物体WはA点に存在することはなかったのでしょうか。そんなことはありません。物体WはA点を通過せずに振動は出来ないことは明らかです。だから、「どこにあったか、静止していたか」ということにこだわる「静止の論理」を使うと、どうしても、「物体Wは、瞬間tには、A点にあって、しかもなかった」と言うほかないのです。もちろん、「あったかなかったか」などという静止の論理にこだわらなければ、「物体Wは、点Oの回りに振動して、瞬間tにA点を通過した」といえば、何も矛盾した表現を使う必要はないのです。
 これで、「そもそも運動は矛盾である。それは絶えず、ある点にあってその点にないことなのだから」という言葉の意味が分かっていただけたのではないでしょうか。それは、必ずしもやたらに七面倒くさいことを言いたがる人が言う言葉ではないのです。」


図がないので想像が難しいかも知れないが、重りをつけたひもをつり下げた振り子があると想像して欲しい。これが静止している状態であれば、それは論理的に簡単に記述出来る。しかし、振り子の「運動」をしている状態にあるときは、それを論理で記述しようとすると、ある地点に「あるか、無いか」という形式論理の表現では矛盾を生じると言うことが語られている。

振り子が地面と鉛直方向になるような、真下に来た地点に「ある」と考えるなら、それは、その位置で止まっている状態と同じ記述になる。「ある」というとらえ方は、それが移動せずに静止しているというとらえ方になるからだ。移動してしまえば、それはその地点に「ある」とは言えなくなる。

しかし、静止していた時に重りが引っ張る力に耐えていたヒモが、振り子の振動を起こしたときには、切れてしまうことがあると板倉さんは指摘する。そうすると、振り子の運動の時は、真下に来るときに、静止した状態よりも強い力がひもに掛かることになる。これは、体感することも出来る。重りをつけたヒモを自分で振り回すような運動をすると、ただぶら下げていたときよりも、早く回転させればさせるほど強い力で引っ張られるのを感じることが出来る。

運動は物質の状態を変えてしまう。静止していれば釣り合っている力が、運動しているので、運動の方向を変える方に力が向いていると考えなければならない。しかし、その記述は、ある瞬間という時間を捉えて、その瞬間には力が中心方向に向いていると記述するしかない。そして、その記述は、静止とは違うものになるので、その瞬間にはそこに「ある」と考えてはいけないということも意味している。つまり、振り子の運動においては、物質は「その地点に<ある>と同時に<無い>」のである。運動そのものを表現しようとすると矛盾が顔を出す。

瞬間の記述は、論理的に考えればあくまでも静止でしか表現出来ない。しかし、「運動」は、その静止した瞬間が連続的に無限につながることを意味する。無限につながることで、瞬間が瞬間でなくなる。0(ゼロ)を無限に加えて0(ゼロ)でなくなるという感じだろうか。「運動」そのものの記述は、論理的にやろうと思えば、このようなものが本質的に現れると思われる。

「アキレスと亀」のパラドックスにおいても、「アキレスが、亀が元いた地点に到達する」という瞬間を記述する。この瞬間は、論理的には時間が0(ゼロ)としか考えられない。だから、この瞬間をいくら積み重ねても時間は0(ゼロ)であるから、永久にそこにとどまったままで未来へ到達しない。運動は、この瞬間が積み重なって、幅のある時間の経過が生まれることで記述しなければならない。ゼノンの論理では運動は記述出来ないのではないかとも思われる。

ゼノンは、矛盾の存在によって、現実の運動そのものを否定したのではなく、形式論理が運動を記述するという可能性の方を否定したのではないだろうか。それはゼノンが意図したことではないのかも知れないが、ゼノンのパラドックスの解釈としては、その方が論理的に正しいのではないだろうか。現実には運動は存在するのだと思う。しかし形式論理では直接表現は出来ないのだ。それを直接表現しようとすれば矛盾が生じてしまい、形式論理が利用出来なくなるのだと思う。直接表現するのではなく、間接的に静止を表現し、その静止を否定することによって運動を表現するという工夫をしなければならないのではないだろうか。

板倉さんは、「「あったかなかったか」などという静止の論理にこだわらなければ、「物体Wは、点Oの回りに振動して、瞬間tにA点を通過した」といえば、何も矛盾した表現を使う必要はないのです」とも語っている。運動そのものは、形式論理で表現すれば矛盾を生むが、形式論理にこだわらなければ、「通過する」という動詞表現で語れば矛盾を生まないと言うわけだ。

「運動」の本質を求めるには、今度は、その直接の表現である「動詞」というものとの関連を考える必要があるのではないかと思う。三浦つとむさんは、「動詞」は、物質の変化する属性を表現すると捉えていた。「運動」の本質も「変化」にあるだろうことは十分予想出来る。今度は、「動詞」というものを通じて「運動」を考えてみようかと思う。
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by ksyuumei | 2006-01-26 11:01 | 論理


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