映画「僕はラジオ」を見た

みらいさんの日記で「僕はラジオ」というエントリーを読んだ、ちょうどその日に、ケーブルテレビのスターチャンネルでこの映画を放映していた。もし、この日記を読まなければ、そのタイトルだけからでは、この映画を見ようと言う気にならなかったかも知れない。縁とかタイミングとかは面白いものだなと思う。

一言で感想を言えば、とても素晴らしいストーリーの映画だったということだ。映画のついての情報は、「Sony Pictures 僕はラジオ」というところで見ることが出来る。ストーリーを引用しておくと、




「フットボール部のコーチ、ジョーンズは、グラウンドの傍らでよく見かける知的障害を抱える青年にチームの世話係を頼む。ジョーンズは、音楽が好きで片時もラジオを手放さないその青年に“ラジオ”というニックネームを付け、試合や学校の授業にも参加させる。自身の明るさと純粋さで、たちまち人気者になる“ラジオ”。しかし、そんな彼の存在を快く思わない人たちが…。

『陽だまりのグラウンド』、『オールド・ルーキー』に続く、人々の優しさ溢れる感動作品!」


と書かれている。この映画をご覧になっていない方は、これから書くことを実感としては分からないかも知れないが、僕が感動したのは、コーチのジョーンズの人間性と、知的障害を持った青年「ラジオ」を受け入れるアメリカ社会の懐の広さだった。このような素晴らしい人間が、ロールモデルとしてリスペクト(尊敬)されるアメリカ社会の素晴らしさに憧れる。しかも、このロールモデルが、決して偉人的な人間ではなく、普通の市民のように見えるところがまた素晴らしい。誰もが、このような生き方を手本にして、人生に充実感を感じて生きられる可能性があるのが、アメリカという社会なんだなと思う。アメリカという国家には様々な問題があるものの、この社会は何と素晴らしい長所を持っているのだろうと思う。

コーチ・ジョーンズは、確固たる価値観を持った信念の人という感じがする。ラジオのために何かをするということの理由が、「正しいことだからだ」という言葉にそれを感じる。人のために何か自分が出来ることがあれば、それをするということは間違いではない。それは正しいことなんだという自信にあふれて、正しいからこそしているのだという思いに、彼の信念を感じる。

ラジオの母親は、「正しいことがすべて出来るわけではない」と言うことを語っていたが、これも確かに真理だ。しかし、すべてが出来ないからといって、今目の前に出来ることがあるときに、他のことが出来ないからという理由でそれをやめることはない。今それが出来るからこそ、それをやるのだというのは、「正しいことがすべて出来るわけではない」という真理とはまったく矛盾しないのだ。

個人的な理由としては、コーチ・ジョーンズの胸の中に、子供のころに、何かが出来たはずなのに何も出来なかったという悔いがあったことが説明される。その時の悔いを繰り返さないためにも、今何かが出来るならそれをしたいのだ、という強い思いが感じられた。それを、娘と語り合うシーンもなかなかいいものだと思った。子供と、このような真面目な話を照れずに出来るというのはまったくうらやましい限りだ。

さて、信念の人というのは、日本の映画でも良く描かれる。この正月には、高倉健主演の「ぽっぽ屋」という映画をテレビで見た。ここにも、仕事一筋の信念の人である鉄道員の乙松という人間が描かれている。彼も、仕事の上での正しさを一心に求める信念の人だ。しかし、日本的な信念の人と、最高にアメリカ的な信念の人のコーチ・ジョーンズの間には、大きな違いがあるのを僕は感じた。

乙松は仕事には厳しいが、家族は仕事のために犠牲になってもあまり顧みることがない。必ずしも家庭的な幸福を築くことが出来る人間としては描かれていない。むしろ家庭は、どちらかというと不幸に見えた。子供や妻を亡くすという、運命的な不幸もあったが、それ以上に、彼の幸せは仕事の中にしかないので、家庭を幸福にするという発想がそもそもないのではないかとも感じた。仕事の上では非常にリスペクトされる人間でありながら、人間性として全体像を考えると、僕には単純に尊敬出来る人物には映らなかった。ロールモデルには出来そうにない感じがしたのだ。

それに対して、コーチ・ジョーンズは、正しいことをしながらも、それによって家族が犠牲になっているかも知れないと言うことが常に思いの中にあるように感じた。人間の行為の中に、絶対的に正しいと呼べるものはない。だから、一方では正しいと感じながらも、それがその人の全体像の中で、他に影響を与えているとしたら、その影響も考慮に入れて判断をすべきだと言うことになる。そのような信念として、コーチ・ジョーンズの思いを僕は感じた。つまり、彼はあくまでも市民として生きて、その上で自分の責任を果たそうとしていた人だったのだ。これこそが、僕はリスペクトに値するものであると感じた。この人は、ロールモデルとして素晴らしい人だと思った。

この映画が、コーチ・ジョーンズの「正しいことをした」という満足感だけを描くものであれば、自己満足に陥った単純なヒーローものに過ぎないものになっただろうが、実は、「人のために何かをした」という人は、そのことによってもっとも多くのことを学び、もっとも多くのことを得ているのだと言うことを描くことによって、その単純さを逃れている。だから、彼が、ラジオのことにかまけて家族を犠牲にしたと感じたときも、その家族の方は、実は彼の行動とラジオとの触れ合いによって、犠牲になるどころか、もっと素晴らしいものを得ていたと気づくところが素晴らしい。

アメリカの市民社会というのは、このような信念(「正しいことだからする」)というものが、人間を成長させるということをよく知っているのだろうと思う。だからこそ、ラジオのことを、単なる同情ではなく、同じ市民として受け入れると言うことが出来てしまうのだろうと思う。たとえ障害があろうとも、市民として基本的人権が守られなければならないという信念が社会にあるのを感じる。その基本的人権を守るからこそ、ラジオを簡単に施設に送るなどという発想に反対し、彼が生き生きと生きている、彼の人生を奪うような決定は許さないという信念が生まれてくるのだろうと思う。

知的障害を持つラジオの描かれ方も素晴らしいと思った。彼は、彼が普通に生きることで誰からも愛される人間として描かれている。彼に何か、ある美点や長所があるために愛されているという描き方をしていない。彼は、彼が感じたままに行動する。それがとても美しく感じられるという描き方が素晴らしい。

この美しさ・素晴らしさはどこから来るものだろうか。それは、悪意のない人間と、信頼ベースで関係を結ぶことの素晴らしさではないかと僕は感じた。彼は、知的障害があるために、ある意味では悪意を持ちたくても持てないのかも知れない。悪意がないというのが、彼の本性であり運命だ。それを理解した人は、彼と接することで、ある意味では自らの悪意を洗い流すような感じがするのではないだろうか。少しでも利己的な考えを持てる人間は、悪意からは逃れられない。しかし、逃れられない悪意であっても、それに気づき、洗い流すことが出来れば、どれほどいい気分になれるかは分からない。

このような気分を与えてくれるラジオは、確かに素晴らしい存在であり、なくてはならない存在なのだと思う。相手に対する信頼を持って深い人間関係を結ぶことが出来れば、それがどれほど素晴らしいものかは、それを味わった人間にはすぐに分かる。その信頼を持つことに対し、これは「正しいことだ」という確固たる自信を持ち、だからこそ自分はそうしているのだと思えれば、その内発的な主体性も、人間の自信を支えるものになるだろう。素晴らしいことの循環がループのように回る社会がそこにあるのを感じる。

僕が勤める夜間中学も、そのような信頼ベースを基礎にした人間関係が築けるところだと感じる。昼間の中学では、教員は、「生徒になめられない」ことを考えたりする。これは、何かきっかけがあれば、生徒は教員を「なめる」ような存在だと考えていることになる。ここには、残念ながら信頼ベースを基礎にした人間関係を築くことが難しいものを感じる。

夜間中学に集う人たちは、学歴差別の中で辛酸をなめた人生を送ってきた人であろうと想像されるのに、なぜか悪意を感じない人たちばかりだ。この映画で描かれているラジオという青年が持っている優しさと同じものを、夜間中学に集う人々に感じる。それが、悪意と偏見に毒された教員にも影響して、教員自身にも悪意を洗い流すような体験をさせてくれるのを感じる。

夜間中学のドキュメンタリーを撮影した森康行監督は、夜間中学を訪れると元気が回復すると言うことをよく語っていた。ラジオと接することで、人間としての良さを回復していく人々が感じていたものと同じものを森さんも感じていたのではないかと思う。

映画の舞台であるアメリカと違うのは、日本社会では、このような夜間中学の素晴らしさが、夜間中学の中だけで完結してしまって社会的な広がりを持たないことだ。アメリカなら、町を挙げてラジオのことを歓迎するような社会になりうる可能性を持っている。しかし、日本では夜間中学の存在は、それが存在する町に住む人にさえ知られていないことが多い。

この映画は、アメリカの素晴らしさを改めて感じさせてくれたが、同時に、その点で日本社会に足りないものをいくつも感じた。どうすれば、あのような素晴らしい社会が生まれるのだろうか。教育に携わる人間として、市民として正しく生きたいと願う人間として、考え続けたいことだと思う。
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by ksyuumei | 2006-01-21 13:30 | 映画


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