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森達也さんの『悪役レスラーは笑う』(岩波新書)を読んで以来、またかつてのプロレス熱が甦って、今プロレスに関する本をいくつか読んでいる。主に読んでいるのは、新日本プロレスでレフェリーとして活躍したミスター高橋さんが書いた一連の本だ。僕がプロレスファンであったということもあり、しかもかつて夢中になった頃のプロレスについて書いてあるので、高橋さんの本はどれも面白く読んだ。
森さんの本の面白さを考えたときもそう思ったのだが、事実の面白さを書いた本はとても分かりやすい。そこには自分の知らないことが書いてあり、しかも知りたいと思うことが書いてあるので、それを知ること自体が楽しいという、知識を得ることの楽しさを感じることが出来る。それは知らなかったことを知るだけであるから、そのことについて深く考えるという複雑さがなく、そのためにとても分かりやすい。 僕は数理論理学などをやっていたので、かなり理屈っぽく考えるのも好きだ。そのときの楽しさは、何かもやもやしていた頭の中が、すっきりと見通しよく晴れていくように見えるところに楽しさがあった。事実を知ることによる分かりやすい楽しさもあれば、複雑な現実世界のつながりを一つずつほぐしていって、世界の全体像がいっぺんに見えてくるような瞬間を感じる、考えることの楽しさというものもある。この二つの楽しさは質が違うものだが、強く結びついている部分もあるのではないかという気がしている。 More
森達也さんの本を立て続けに2冊夢中になって読んだ。一つは『悪役レスラーは笑う』(岩波新書)というもので、これは戦後まもなくアメリカで活躍したグレート東郷というレスラーについて書かれたものだ。僕は小学生の頃に若いアントニオ猪木のファンになって以来のプロレスファンなので、まずはプロレスについての記述ということでこの本に惹きつけられた。
僕がプロレスを見始めた頃はジャイアント馬場の全盛期で、猪木はまだ若く馬場の引き立て役のようになっていた。しかし僕は最初から馬場よりも猪木の方に強く惹かれていた。猪木のはつらつとした動きに魅せられていて、勧善懲悪的なカタルシスを前面に押し出した馬場のプロレスよりも、動きそのものに引き寄せられる猪木のプロレスは、見ているだけで楽しかったものだ。ドリー・ファンク・ジュニアやビル・ロビンソンとは60分フルタイムで戦って引き分けるという試合があったが、それだけ長い間見入っていても飽きるということがなかった。 そのようなプロレスファンだった僕は、『1976年のアントニオ猪木』(柳澤健・著、文藝春秋)という本もかなり夢中になって読むことが出来た。しかし、その夢中の度合いがどうも森さんの本の場合と違うのを感じた。どちらも夢中になって読み、しかも僕の中では猪木の方が圧倒的に好きだから、内容としての関心の高さでは柳澤さんの本の方が関心が高い。それなのに、森さんの本は次のものが読みたいと思うような夢中さなのだが、柳澤さんに関しては、関心を持つような内容であれば手に取りたいと思うが、その著者の名前だけで次の本を手に取ろうというような気分にはならなかった。 More
仮説実験授業の提唱者の板倉聖宣さんは、民主主義を「最後の奴隷制」と語っていた。奴隷というのは意志のある主体的な存在とは認められず、その持ち主の意志に従ってどうにでもなる存在だ。民主主義における人間も、自らの意志に反して他者の意志を強制されるという一面を持っている。多数が賛成した事柄は、たとえ少数の反対者がいようとも、多数の賛成によって決定したというプロセスを元に、反対者といえどもその意志が強制される。この面を捉えて、板倉さんは民主主義を「最後の奴隷制」と呼んだのだろうと思う。
民主主義は非常に価値の高いものとして多くの人に捉えられてきたし、僕もそう思っていた。科学的な真理というのは、科学としての手順を踏んで証明されたものは、賛成者が多いか少ないかにかかわらず真理であることが確信できる。しかし、科学として真理が確かめられない事柄は、最も真理に近い判断を求めるために民主的な手続きを踏むことがいいという発想は正しいように感じる。議論を尽くして求められた結論は、多くの人が賛成したものの方がより真理に近いように思えるし、それが間違えていたときも、賛成した多数者が責任をとるという形にしておけば、間違ったときの反省も出来て、以後はより真理に近い判断が出来るようになるだろうと期待できる。 民主主義がすばらしいものであるというイメージがあったときに、それを「奴隷制」と呼ぶようなマイナスのイメージを提示されることは衝撃的だった。民主主義には必ずしもいい面ばかりではなく、欠点もあることを具体的に指摘され、しかもそれが納得できるようなものだった。板倉さんの指摘は、科学における真理にも、多数決的な民主主義的な判断がされた歴史があり、それが間違えていたということから導かれたもののように感じる。みんなが判断するということにふさわしくないことまでも民主的な手続きで決定することに間違いがあるという指摘だ。 More
宮台真司氏は『14歳からの社会学』の第2章で社会のルールについて語っている。社会にある種のルールが存在するのはある意味では当たり前で、そのルールにほとんどの人が従っているときは、それがルールであることさえも意識せずにいるだろう。しかし、そのルールを破る人が出てくると、それがルールとして正しいのか・有効なのかということが気になってくる。その判断はどうして考えたらいいのだろうか。
ルールを疑わない人は、そんなものは常識ではないかといって済ませるかもしれない。しかしその常識が通用しないときは、いくら常識であることを主張してもルールを維持することには役立たない。また、そのルールが今の状況には合わないのではないかと思っても、ルールがある以上仕方がないというあきらめの気持ちも生まれてくる。そのような場合はなし崩し的にルールが守られなくなっていく無秩序の状況を、何か変だと思いながらも受け入れていくようになってしまうような気がする。 社会のルールは、自分の感性(好き嫌いや気持ちがいいかなどという感情の働き)で判断して正当性を確立することが出来ない。これだけ感性が多様になってきた現代社会では、感性に頼った判断は合意が出来ないからだ。多くの人が合意できるような判断を求めるには、やはり論理に従った判断を求めるしかない。それが社会を理論的に捉えようとする社会学の必要性を要求する。現代社会のルールを理解するには社会学的な素養が必要になる。現在の成熟社会を生きる人間だからこそ「14歳から」社会学の素養が必要になる。 More
宮台真司氏が『14歳からの社会学』という本を書いた。この本は、14歳でも読めるように、知識と経験に乏しい人でもその内容が分かるように配慮されて書いてある。一つの社会学入門書と言っていいだろう。子供のための入門書は、例えば「14歳のための○○」というような表題になっているものもある。しかし、宮台氏の本では「ための」ではなく「からの」という表現になっている。これには深い意味があるのではないかと感じる。
社会学というのは、今の大人たちも学校で習ったことがない。しかし、これまでの大人は、社会に出て働いたりすれば、それなりに社会というものがどういうものであるかを経験で知ることが出来た。学校で習わなくとも、学校を卒業した後に、社会のことは社会で経験することによって学ぶことが出来た。それが今ではたいへん難しい時代になっているのではないかと思う。 今日は成人式であり、日本では二十歳を過ぎれば一応大人として認めてもらえる。それは、大人としての義務を果たさなければならないというものがいくつか発生することでもあり、大人として行使できる権利を手にすることが出来ることでもある。かつての大人たちは、この儀式を通過することで大人としての自覚を持つことも出来たが、今はそれは難しい。子供たちはどうやって大人になればいいかが分からなくなっている。社会が安定していた時代は、ある種の通過儀礼を経ることによって誰もが大人になった。しかし、複雑化し流動化した現在は、どうなれば大人になれるのかが分からなくなっている。 大人になるということは、おそらく社会というものが理解できたときにそのような自覚が生まれてくるのではないかと思う。宮台氏が「14歳からの」という限定付きの社会学を語っているのは、これからの時代は、社会を理論的に捉えなければ理解が難しくなったのだということを語っているのではないかと思う。14歳からそれを意識することで、やがて二十歳になり大人になるときに、自信を持って大人だと言えるような何かがつかめるのではないかと思う。 More
昨日たまたまテレビを見ていたら、開戦当時の日本を描いたドラマをやっていた。ビートたけしが主人公の東條英機を演じたドラマで、主人公にするくらいであるから、A級戦犯としての東條のイメージとはかけ離れた、その人間的な魅力を描いたドラマとなっていた。
僕はその当時の日本の歴史的事実や東條英機の伝記に詳しいわけではないので、そこで描かれていた事実がどの程度「本当」であるかという判断は出来ない。だが、フィクションとはいえそこに嘘が描かれているという可能性は少ないだろう。ほとんどは、事実として確認出来る「真実」を元にして描かれていると思われる。だが、そこで語られていることがたとえ「事実」であったとしても、それを抽象化して「判断」を求めると、必ずしも「事実」と直結した「判断」が導かれるとは限らない。 ナチス・ドイツの高官たちは、ほとんどが家庭では良き夫であり・良き父親であったと言われている。その面だけを取り上げれば、彼らは魅力的で誠実な人間だったと「判断」されるだろう。しかし、ユダヤ人を迫害した面を考慮に入れるなら、この良き家庭人としての面は総合的な「判断」の中では末梢的な部分を占める「事実」になるのではないかと思われる。テレビドラマに描かれた東條の一面の「事実」も、東條を総合的に評価するには、それが本質を表しているかどうかを考えなければならないだろう。だが、そこまでの詳しい知識がない今の僕の段階では、そのような考察をすることは難しい。そこで、テレビドラマに描かれたことを「事実」だと前提にして、その「事実」を受け取った限りでの東條の印象を考察してみようかと思う。テレビドラマに描かれた東條を見れば、その姿から東條という人間がどのような人間であると受け取れるのか。それを考えてみたい。 More
この本は、「亜細亜主義の顛末に学べ」と題されているのに、「亜細亜主義」についてはほとんど具体的な記述がないという不思議な本だ。「亜細亜主義」についてはすでに一定の予備知識を持っているという前提で書かれているようだが、その「顛末」をどう理解するかについてはどこかで一言触れておいて欲しかったと思う。それがないために、その疑問を抱いたまま読み進めるというような形になる。
おおざっぱに言えば、アジアとの連帯を求めた理想主義的な思想であったにもかかわらずに、結果的には列強の侵略と同じものを招いてしまったというのが「亜細亜主義の顛末」と考えられるだろうか。これから何がどのように学べるのだろうか。 この本は副題として「宮台真司の反グローバライゼーション・ガイダンス」というものがつけられている。その帯の部分には「アタマ悪いが力は強いジャイアン・アメリカをどうコントロールするか」という言葉が書かれている。「亜細亜主義の顛末」に学ぶことによって、このような目的が達成できるという主張なのだろうと思う。だが、このつながりをすっきりと腑に落ちるように理解するのは難しい。反グローバライゼーションに関する論説は、それだけを取り上げるのであれば理解できないことではないが、これがどうして「亜細亜主義の顛末」とつながっているのだろうか。このことの意味をちょっと考えてみようと思う。 More
田母神俊雄氏(防衛省航空幕僚長空将)の論文「日本は侵略国家であったのか」を考察してみようと思ったそもそものきっかけは、この論文の主張に共感する人が意外に多いということだった。僕自身は論理的な弱さを感じていただけに、自分の中には共感する気持ちが生まれてこなかった。どこが共感を呼ぶ要素になっているのだろうかということを知るために考察してみようと思った。
しかし、考察を始めて見ると、論理的な面の弱さが見えてくるだけで、ここが共感する部分なのかというのが見つからなかった。自分が共感を感じられないだけに、自分の中にないものを外に発見することが難しかったのだ。 そんなことを感じていたときに、ライブドアのブログに「CCMFさんからのコメント」をもらった。これが、僕が見えなかったものを見るために非常に参考になるものだと感じた。このコメントでは 「田母神論文に対する否定的評価の典型は、「論文としては稚拙である」「学術論文の体裁をなしていない」など、テキストとしての外形を問題にする批判が、目立ちました。ただ、これは、学者の世界の中だけで通用する言い分でしょう。世の中の普通の人は、理論理屈だけでは、動かないものです。 好意的な評価としては、花岡信昭氏が「審査する側としては、田母神氏の論文はすっと素直に読むことができて、「国家や国民への思い」があふれた内容を高く評価したのだが、政治の世界や一部メディアはこれを許さなかった」と書いています。 「すっと素直に読むことができる」という花岡氏の意見に、私も同感です。これが普通の人の評価でしょう。 田母神氏の文章は、分かりやすい、いい文章だと思います。しかも、読後に、ある種の高揚感を与えます。このような文章は、書こうと思ってもなかなか書けません。 田母神氏のような軍隊や組織の頂点に立つ人には、なによりも、部下の士気を高め、やる気を引き出す能力が求められます。「感情面の「主観」的な見方が入り込む」のは、むしろ、意図的なものかもしれません。と言うのも、相手の気持ちに訴えることが重要なのですから。」 と感想が語られている。この感想は僕の中には全く生まれなかったものであり、おそらく自分では見つけることの出来ない感性だろうと思う。 More
田母神俊雄氏(防衛省航空幕僚長空将)は論文「日本は侵略国家であったのか」で、前回に続く文章として次のように記述している。
「我が国は満州や朝鮮半島や台湾に学校を多く造り現地人の教育に力を入れた。道路、発電所、水道など生活のインフラも数多く残している。」 ここで記述されていることがどのような意味を持っているかということは、直接記述されてはいないが、文脈から解釈すれば、日本が中国や朝鮮半島の近代化に貢献したということを主張したいのだろうと感じる。これが本当に「貢献」になったかどうかという点については異論を感じるところではあるが、その真偽については今は問うことなく、それが論理的な流れの中でどのような意味を持っているかを考えてみたい。この事実を語ることで田母神氏は、実は自らが抱いている「侵略」というものの概念について語っていると解釈できるからだ。 「侵略」という言葉の概念は、物理的な属性のように対象をよく観察すれば誰でも合意できるような属性として見出せるものではない。そこには様々な判断と評価が複雑に混在していて、その複雑な判断と評価に合意したときに初めて「侵略」という言葉の概念に対しても同じものを持つという合意が成立する。複雑な対象を表現する言葉はだいたいそのような性質を持っている。「数学」の定義は数学者の数だけ存在すると言われている。複雑な言葉はそれをどの視点から見るかで解釈が違ってくる。日本のかつての行為が「侵略」であるかどうかという判断は、「侵略」という言葉の概念によって判断が違ってくる。 More
田母神俊雄氏(防衛省航空幕僚長空将)は論文「日本は侵略国家であったのか」で、次に「張作霖列車爆破事件」を取り上げて、これが「コミンテルンの仕業という説」を紹介して日本の正しさの一端を論証しようとしている。しかしこの論証は、あまり本質的なものではなく末梢的な部分の主張になっているように感じる。
「張作霖列車爆破事件」は、日本の戦争拡大が「謀略」によるものであるということを主張するときの象徴的なものだと思うが、それは「謀略」であるということに関連しては重要だろうが、戦争全体が「侵略」であるかどうかという判断に関しては末梢的なものだと思われる。また「謀略」であるという考え方も疑問があるもので、日本はそれほどきめ細かな戦略を持って戦争が拡大したのではなく、偶発的な事件を利用して、いわばチャンスだから「やっちまえ」というような、あまり深い考えなしに戦闘行為に入っていったように評価する人もいる。戦争のイメージを左右する意味では象徴的だろうが、戦争全体の評価に関しては末梢的な部分ではないかと思う。 また、この事件が「コミンテルンの仕業」だとしても、その「謀略」を指摘して非難するのも、「謀略」に引っかかるほど頭が悪かったのだと告白しているようで、戦争の指導者に当たる防衛省航空幕僚長空将としてはふさわしくないのではないかと思う。戦争においてスパイが活躍するのは当然のことで、相手の情報を得て戦争を有利に持って行こうとする「戦略」は常に考えなければならないだろう。それが「謀略」と呼ばれるようなものであっても、道徳的には非難されるかもしれないが、味方を有利に導いていれば味方にとっては賞賛されるような行為になるだろう。相手が「謀略」を仕掛けてきても、それを上回る優れた戦略で対抗することこそが戦争の指導者に求められることだろう。 More
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